乗り込もうとした車両から、彼女が降りてきた。
人波のなかから彼女の細い腕だけを掴むのはたやすかった。
おれの肌にいつも吸いついてそっと馴染む彼女のやわらかな肌が、手のひらのなかでちいさく脈打っていた。
引き寄せようと力を入れると、一瞬の抵抗のあとに、存外すんなりと身体を任せてくれた。
おれたちを押し込むようにして、背中側のドアが閉まった。
胡蝶からは彼女と音信不通になってしまったと聞いていた。
連絡先は勿論知っていたけれど先日のやり取りの手前、彼女へ直接連絡を入れるのはフェアでないと思い、どうしたものかと攻めあぐねていたのだ。
すし詰め状態の電車のなかで、彼女はおれの胸にぴったりと張りついていた。
さみしそうな顔をしていた。
彼女がいなくなったあと町じゅうを探しても見つからなかった独特のあまいかおりが、胸のそばから立ち上ってきた。
腰を抱いても嫌がるそぶりは見せなかった。
「家で話そう」
駅の改札口の前で、彼女は泣き出す寸前の迷子のような顔をしていた。
ふいと目線を逸らされたから、いやなら話さなくてもいいと伝えると、ようやくゆっくりと歩き出してくれた。
青白い月のあかりを受けてしんとしずかにしている彼女は、まるで神の遣いとでもいったふうで、本来この世には存在しないもののようだった。おれ以外には見えていないのではないかというくらい、空気のように、水のように、しずかだった。
うんと冷えた冬の朝に、彼女は忽然とすがたを消した。
こころあたりといえば、前の晩のセックスの最中に、彼女がさめざめと泣き出してしまったことだけだった。
あとのことはすべて順調と思っていた。
きっと両手で持てるものだけを抱えて出て行ったのだろう。化粧水や食器や一部の部屋着なんかはそのままだった。
ぱっと見えるところにあるもののほとんどは置いたままだったのに、テレビボード上の写真立て――リビングで撮ったツーショットが入ってあった――は持って行ったようだった。
彼女はリビングの様子を見渡し、ひどく驚いて、そして、落胆したようだった。
半年間、彼女のものはひとつも処分しないままでいた。
間接照明のぬくみのある電球色が、彼女のまつげとつま先をそっと照らしている。
「ぱっといなくなったから、ぱっと帰ってくることもあると思った」
「……もう、帰らないわ」
彼女はまた泣き出しそうな顔をしていた。いつもやっていたようにソファに座ったまま手を伸ばすと、彼女もいつものように、おれの手のひらにそっと頬を寄せた。
「義勇さん」
キスをするのはたやすかった。
それが自然のなりゆきというように、おれたちはくちびるを重ねた。
話さなくてもいいと言ってしまったから、彼女を問いただすことはできなかった。
どうして出ていったのか。
愛想が尽いたのか、もともとすきではなかったのか。
幸福ではなかったのか。
誰よりもしあわせにしてやりたいと思っていたのに。
「どうして髪を切ってしまったの」
「お前の手を思い出すから」
「思い出したくないの」
「戻らないと思うことはつらい」
「どうして」
ベッドのなかで、たったそれだけの会話をした。
朝起きると彼女はやはりどこにもいなかった。
眠るとその隙にいなくなると確信していたから起きていようと思ったのに、額をさする親指のここちよさに目を閉じるとまどろみの淵へ落っこちて、そのまま、這い上がってはこられなかった。
脱いだジャージがきれいに四角く畳まれていた。
朝食が用意されていた。しかしキッチンにも、玄関にも、彼女はやはり、いなかった。