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なんだかまだ夢のなかにいるような気がして、目を閉じても、眠りに誘われる気配がまるでなかった。逆をいうと、起きているのに頭がぼうっとして、眠っているときのようだった。
音を立てないようにと気をつけながら衣服を探したけれど見あたらなくて、かろうじて見つけたブラジャーのみをつけてベッドを降りる。
ショーツははいたままだったので、わたしは下着姿のまま暗闇をつま先歩きでそっと進んだ。
義勇さんの背中は、ふかふかの布団のなかで規則正しく上下している。

リビングからベランダへと出た。
元々備え付けられていたものなのか前の住人の残置物なのかはわからないけれど、この家のベランダにはガーデンチェアがふたつ置いてある。アルミでできていてとても軽く、座ると夏でもひんやりと冷たい。
特段眺めがよいというわけではないけれど、わたしたちはよくここに並んで腰を掛けて、お酒や麦茶を飲んだり、読書をしたり、ただおしゃべりだけをしたりして過ごした。
義勇さんとの日々は、これといった工夫がなくとも、いつも楽しいものだった。

「風邪をひくぞ」
「ああ、ごめんなさい、起こしちゃったでしょうか」
「いや、寝たら消えるかと思って起きてた」
「たぬき寝入りだったの」
「うまいだろ」

義勇さんはわたしの髪の毛をよけると額にくちづけをくれた。かけてくれたタオルケットが素肌に気持ちいい。
風のない夜だ。わあわあと虫の鳴き声が聞こえる。
目があったそのまなざしが熱っぽくまっすぐだったので、逸らせずに、わたしもじっと見つめ返した。

「あのままおれに会わなければ、違うやつを選んでいたか」

「恋愛をする元気なんてなかったけれど、どうでしょう。でも、そうでも、そうでなくとも、わたしの人生はきっと、さみしいものになっていたでしょうね」

「戻ってきてほしい」

「……言ってくれないかと思った。でも、それでもしかたないって思っていました。勝手なこと、たくさんしたから」

「出ていかれるのもつらいが、決定的に振られるのはさすがにこたえる」

「わたし、義勇さんにさようならって言われるのがこわかったんです。聞いてしまったら、生きていかれない気がしたから」

外の空気はぬるく、重たかった。どんよりと倦んでいて、足元のほうでわだかまっている。
近々雨が降るような、そんなにおいがしていた。
わたしはとなりに座った義勇さんの湿ったうなじに顔をうずめた。
義勇さんはわたしの頭をあやすような手つきで撫でてくれる。

「まだ不安か」

「……ガーベラ、ピンクの」

「よくできた造花だろ。胡蝶が教えてくれた。花がないとお前のいないことを実感するのに、花を買うことも、お前がいないことを思い出すから」

「わたしの置いていった花と同じだって気がついたとき、そこでやっと、愛されていたんだって思ったの。わたし、ばかだから」

義勇さんはひととして、恋人として完ぺきで、不足がなくて、わたしはいつも劣等感に押しつぶされてしまいそうだった。
義勇さんはきっと、ふたりの生活のなかのあちこちにわかりやすく愛を散りばめてくれていたというのに、わたしはというと、不釣り合いな自分から目を背けるために、義勇さんからの愛にも蓋をしてしまっていたのだと思う。

また発作のような不安に襲われるときがくるかもしれない。
それでも、このひとの無防備にさらされたうなじや、この部屋のことを思い出せば、そして不安であると口にさえすれば、うまくやっていけるという気がした。

これまでたくさんのことを話し合ってきたように思っていたけれど、わたしは不安から、愛にまつわるような話はきっと、避けてしまっていたのだ。
たとえば女性のどういうしぐさがすきだとか、髪はショートがいいのかとか、ロングがいいのかとか。背は高いほうがよいのか、低いほうがよいのかとかも。
そんなことを聞くのは、今でもこわいけれど。

「帰りたい、義勇さんのところへ」
「ずっと待ってた」
「ずっと、戻りたかったです。でも、おなじくらいこわかった」

義勇さんのTシャツの肩口が、涙で重たく濡れていく。義勇さんはわたしのこめかみに鼻先を寄せる。

「わたしの勝手は、許されるでしょうか」
「はじめから怒ってない」
「また不安になってしまったら?」
「今度は逃がさない」

首に腕をまわすと軽々と抱き上げられて、座っていたままでは窺えなかった町のネオンが見えた。
お互いに沈み込むような、たっぷりとしたキスをする。

「おかえり」

「ただいま、義勇さん。義勇さんがだいすき」

「お前の繊細なこころがすきだ。その瞳に映っているものも、それを共有してくれる、言葉の選びかたも」

初めて会ったのは春のこと。
季節が一周ぶんと、それに夏と秋をひとつずつかけて冬に別れ、そして色のない夏にまた出会って、ふたたびひとつになった。

朝方、義勇さんはわたしたちのことを「魂のチャンネルが合う」のだと言って、つむじにキスをくれた。
なぜだかわからないけれどその言葉に感じた妙な説得力に、両肩に重くのしかかっていたものがすとんと降りた気がした。
わたしもそう思うと呟くと義勇さんは満足げに目を細めて、そしてわたしを抱いたまま眠ってしまった。
この腕から逃れようとは、もう思わなかった。