壁面のタイルに富士山の描かれたレトロな銭湯は、常連らしき年寄り数人に“占拠されている”といった雰囲気で、とても居心地が悪かった。
見知らぬひとの浴室に忍び込み、愛用のバスグッズや裸体を盗み見てしまったような罪悪感さえある。
立ち登る湯気は、牛乳石鹸のにおいがした。
わたしが身を寄せる学生寮は、女学生であればどこの学生でも受け入れてくれるなんともレトロな物件で、女子会館や会館と呼ばれている。入居者のなかにはわたしのような高校生もいれば、働きながら夜間の専門学校などに通う者もいた。
私室にはお手洗いとミニキッチンがついているがバスルームはなく、一階にある共同浴場を使わなければいけないのだが、その浴場がだめになってしまったのだ。
お湯が出なくなってしまったとかで、その事実は、私室のドアポストのあいだにねじ込まれていたちいさなプリントのみで知らされた。
この先一週、あるいは二週間──なにしろ古い物件のため、必要な部品の取り寄せに時間がかかるらしい──のことを考えると、憂鬱が波のように押し寄せてきて、わたしはボディクリームを塗り込むのもそこそこに脱衣所を出た。
ここではかおりの強いものは、使ってはいけないという気がした。
ロッカーは待合にあって、男性も女性も共同でそこを使う。待合にはほかに、色の禿げた皮張りのソファとダークブラウンのテーブル、ちいさなテレビと、その隣に古い自動販売機があった。
自動販売機は前面がおおきくアクリル張りになっており、番号を入力して購入するタイプのもので、なかには瓶の牛乳とフルーツ牛乳とコーヒー牛乳、つまり牛乳しか入っていないのであった。
「先生!」
見知った後ろ姿に思いがけずおおきな声をかけてしまったのは、異空間に馴染めず、さみしさの極まったころのことだったからだ。
冨岡先生がばつの悪そうな顔でふいっと振り向くと、どこかアーバンな、牛乳石鹸的でないかおりがした。それは、わたしにとって、安堵のかおりであった。
「みょうじか。生徒に会うとは思わなかった」
「女子会館のお風呂、お湯が出なくなってしまったんです。先生は?」
「階下漏水。使えなくはないが、得体のしれない汚水を被ることになる」
「災難ですね」
「お互いな」
昼には確かに感じられる夏のなごりのあたたかさも、夜にはすっかり気配を消すようになった。
初秋の夜はうす寒く、でも晩夏を思わせる、しめった土のかおりがした。
冨岡先生はとっぷりとしたシルエットのパーカーのファスナーを上まできっかり上げ、ポケットに両手を入れて歩いている。
長い髪の毛はいつもよりラフにまとめられており、洗い立ての白いうなじは、月明かりに照らされて淡く光っているかのように見えた。
「夜は冷えますね」
「肉まんが食いたい」
わたしが力強くうんうん頷くと、先生もちいさく頷いたようだった。先生の頷きは、たっぷりめの瞬きにも似ていた。
わたしたちは話し合うでもなく小道を右に曲がり、最寄りのコンビニエンスストアで、あたたかいミルクティーとコーヒー、それと肉まんをひとつずつ買った。お代は先生が持ってくれた。
わたしたちは不良のように食べたり飲んだりしながら、夜の公園を横断し、細い路地を抜けた先で別れた。
金木犀の涼しげなかおりが、冷たい風に乗って流れてきた。あまいけれど媚びないかんじのするかおりは、先生にぴったり似合うと思った。月を煮詰めたみたいな色の花も。
思いがけず、たのしい夜だった。
先生は、明日もあの銭湯へ行くと言う。
明日はあそこにふさわしい牛乳石鹸を持って行こうと思う。長く歩いても平気なように、きちんと着こむことも忘れない。