先生の家のバスルームは、広くて、とても清潔だった。ランプブラックの壁も、作りつけのカウンターが大理石調なのも、一目で気に入った。
うつくしいバスルームはわたしのこころを大いに興奮させたが、なによりもわたしをよろこばせたのは、広いキッチンもすきに使ってよいということだった。
会館の浴場が直るまでのあいだ、先生のバスルームを使えばよいと言ってくれた。どうせ一度家にあげてしまったのだから、二度も三度も変わらないと。
ただで、というのはとても気が引けたので、料理ができることは都合がよかった。
それに、誰かのために食事を作るのは新鮮で楽しいし、なによりも、すてきなキッチンで作業するのは気分がよい。
会館の私室にはミニチュアみたいにちいさなシンクと、一口コンロがぎりぎり置けるくらいのワークトップのみしかないのだ。
味噌汁の仕上げに取り掛かったとき、玄関のサムターンの回る音がした。
「先生、おかえりなさい。おつかれさまです」
「おつかれ。いいにおいがすると思ったら、うちからだった」
玄関は秋の冷たいにおいと、一筋の金木犀のかおりがした。空気が驚くほどひんやりとしており、先生の鼻の頭がすこしだけ赤かった。
「あの、お礼にと思って、夕食を作ったんです。もう出来ますので、おすきなときに食べてくださいね。長居してしまってすみません、キッチンを片付けたらすぐに帰ります」
「こどもが気を回さなくていい。でも、助かる。食べたら送っていく」
「そんな、悪いです」
「夕飯の礼だ。それに、もともとそのつもりで請け合った」
わたしの作ったのは、じゃがいもとほうれん草を添えた鮭のムニエルで、タルタルソースは我ながらおいしくできたと思うが、先生の味覚にマッチするかは自信がなかった。
結局、先生の明日の朝食やお弁当にでも、と思って余計に作ったぶんは、わたしがいただくこととなった。
先生はうまいとよろこんでくれて、それは、嘘いつわりのない言葉だと感じた。白米を二杯も食べてくれて、リビングには動物もののバラエティ番組のあかるい声が響いていた。わたしたちも、たくさんの言葉を交わした。
明日はお姉さんから野菜の差し入れがあるそうで、もし料理をするならすきに使ってよいし、ほしいものがあれば持って帰ってよいと言ってくれた。
帰りにスーパーへ寄って先生が買い込んだ肉は、冷凍しておくので、これもまたすきに使ってよいとのことだった。
なにかもっとお返しを、と思ったが、こどものわたしにできることは、思いつく限り、食事を用意する以外になにもなかった。
車を降りる寸前に、かまどベーカリーのパンを持たせてくれた。
先生の車のテールランプは、暗い夜のなかで、どこまでも、どこまでも、いちばんうつくしく光っていた。