手向けの傷

空鳴りする曇天。重苦しく広がるアイスグレーの暗雲を、義勇さんは恨めしげな重たいまなざしで睨んでいた。
ぐるる、と空が唸る。窓を閉めた。風鈴が鳴った。
義勇さんは、わたしのドレッサーのスツールに腰を下ろし気怠げに頭を傾がせながら、そのまましばらく、垂れ込めた厚い雲のほうを向いていた。
雨粒がひとつ、ふたつと、窓硝子にぶつかってひしゃげた。

「義勇さん」

頬にくちびるを寄せる。ひんやりと冷たい。どこからか錆びた鉄のにおいがする。鼻腔にまとわりつくようなぬるく重たいにおい。
おろされた髪の毛を正面に持ってきて、丁寧に櫛をいれていく。
鎖骨に一度くちづけがあって、そのあとやわく歯が立てられた。その次は鈍い痛みがあった。
今度は誤って噛んでしまったのだというみたいにやさしく丁寧に舐めあげられて、その水音はだんだんと激しさを増していく。

義勇さんの左手がわたしの右腕を掴んで、乾いた肉のぶつかる音と同時にぶれたわたしの指先から櫛が放り出される。

ぬるいキスを繰り返しながらベッドへなだれ込むと、義勇さんはせつなげにまつげを揺らした。
義勇さんが泣かないから、わたしは泣きたくなってしまう。
ベッドに座り込んだまま、わたしは義勇さんの右手を取りその甲にくちづけを落として、ゆっくり、ゆっくりとやさしくさすった。わたしの熱を余さずすりこんで渡すように、ゆっくりと。


こういう天気の日、義勇さんのこころと身体は時折ひどく錆びついてしまう。
古傷が目を覚まし、身体じゅうが冷たくなって、どこからか古い鉄のにおいが立ちのぼる。
わたしたちにとって過去とは、そのすべてを悔いであると感じるほど憎いものではなかったけれど、数えきれないかなしみやせつなさと決して切り離すことのできないものであった。


ひどく病む右腕に、義勇さんはなにを思うのだろう。
その痛みを共有できないわたしは、遠いいにしえの記憶から重たい出来事の数々を引っ張りだし、そのひとつひとつに忘れてしまわないよう標を立て、せめてこころをあのころのかなしみへ置こうとする。
義勇さんたちのこころのなかにはきっとまだあのかなしみの日々が生き続けていて、こういうふうに天気が陰鬱に崩れるとき、痛みを伴う絶望として目を覚ますのだろう。
わたしには想像もつかないほどの苦しみとして。

「痛みますか」

「おまえのほうが痛そうに見える」

「義勇さんがつらそうにしているのに、わたしはその痛みを共有することも肩代わりすることもできないから」

「そばにいるだけでいい。絶望も痛みも、そのなかに尊い絆や得難い愛情のたいせつさを再度見いだせるなら、おれのようなやつにはきっと無駄ではない。踏み出せば、乗り越えれば、後世まで残るようなしあわせもあるのだと」

雨音が強くなる。
せつなさに感謝するように生きたあの日々の上に建つ泰平の世。
雨は降る。すべてが終わったように見えて世の中は色を変えたけれど、わたしたちはまだとらわれたままでいる。かなしみも消えない。

「…時折、おそろしくなります。こんな日がいつか、義勇さんのこころのみならず身体ごと過去へさらっていってしまいそうで」

「おまえを置いてどこへ行く。おれは、帰らなかったことだけはなかっただろう」

「そうでした。義勇さんはわたしをひとりにしない。これは後世に渡された約束ですね」

義勇さんの右の手のひらを両手で包む。
わたしの熱を吸いあげた指先が、ほんのすこし赤みがかっている。

「お風呂にしましょう。あたたまりますよ」
「長風呂だな」
「タブレットを持っていって、なにか見ましょうか」

浴室の蛇口をひねり、入浴剤を吟味している義勇さんの後ろ髪を手櫛でまとめてラフなお団子にくくる。
うなじにくちづけをして、先ほどのお返しにと一度あまく噛んでみた。
立ちのぼる蒸気のせいか触れた肌がすこしあたたかくて、わたしはすこし安堵する。

「こうして古傷を疼かせるのは、鬼として生きたものたちのこころの残滓であり、この先おれたちが死に肉体が焼けて灰になっても、いつまでも消えず、魂と共に在り続けるだろう。しかしこの痛みこそが、おれたちの軌跡をいつまでも生かし絆を結んでいくものならば、おれはこれをたいせつにしていきたいと思う。きっと、いつの世までも」

「義勇さんたちに訪れるそれが必要な痛みであるというならば、せめてわたしは、必ずそばに生まれます。いつの世でもあなたの腕や背中をさすれるように」

わたしたちはきっといつまでも続いていく。
抱えきれないほどのせつなさを持って、どこまでも。
いつの日かすべてのひとがしあわせになったように見えたそのあとも、救えなかったこころを忘れずに生きていく。
それがわたしたちの業であり、軌跡であり、絆であるのなら、はるか遠くの未来でいつの日か、あたたかな標となるだろう。
そのときはじめて、すべてのかなしみが終わるのだ。
それはきっと、泣きたくなるほどきれいに晴れた青空の下で。