美園の石

つんと冷たい空気のなかで、木々や草花の青いにおいが深くなるのを感じた。
雨上がりに似た濡れたにおい。朝の気配だ。

となりで眠る伊之助を見つめてみる。
布団についた毛先だけがゆるくうねるつややかな髪の毛は、きらめく夜が溶け出したみたいだった。
おおきな背中に額を寄せると、そのここちよい熱にまぶたがとろとろと落ちてしまいそうになる。

「伊之助、起きて」
「…んだよ」

気怠げな返事とはうらはらに、伊之助はこちらへごろんと向き直ってくれた。
人生のなかの多くを山で過ごしてきた伊之助の意識は、わたしが寝返りをうったりまどろみながらその肩や胸や髪に触れるとたちまちに眠りの淵から這い上がってきてしまう。
眠りが浅いのだ。今も、わたしが声をかけるよりももっと前から、伊之助は起きていたに違いない。
それでも、寝つけなくてつい体勢を変え続けてしまう夜も、しつこくぺとぺとと触ってしまう夜も、伊之助が文句を言ったことは一度もなかった。


わたしは伊之助の手をしっかと握り、そのまま引っ張り上げるように立ち上がる。
伊之助は不機嫌そうな顔をしながらも、しぶしぶ身体を起こしてくれた。

「早く、こっち。急いで」

格子硝子の戸を引いて縁側から裏庭におり、丘のほうへとやまぶきたちを揺らしながら駆ける。
朝露がつまさきやくるぶしを濡らす。

役目を終えた月が薄らいでゆく。
山と空の境界線がぼんやりと白みはじめる。
夜明けはすきだ。
生まれ変わる今日が、こころをそうっと磨いてくれる。

「お誕生日おめでとう、伊之助。なにが欲しいのかわからなくて、だから、わたしが知っているいちばんきれいな景色を伊之助にあげる」

曙色をした黎明の空から白銀色の太陽が昇る。ここからの朝日は、ちょうど山と山のあいだに見える。
遅咲きの桜は朝のひかりに白く溶けて、山はところどころがうつくしく発光しているようだった。
伊之助は返らない日を懐かしむような、憂いともあきらめともつかない面持ちで、燦然とかがやくひかりを見つめていた。
はだけた寝間着の袂から古く乾いた無数の傷が顔を覗かせる。
触れた手のひらが硬かった。戦うおとこのひとの手だ。

「伊之助にはつまらなかったかな。お山から見える朝陽はきっときれいだったよね」
「でもこれが、お前のいちばんなんだろ」
「うん」
「なにを見るかじゃなくて誰と見るかだって、炭治郎のやつが言ってた。わかんねぇって思ったけど、こういうことなら、わかる気がする」

伊之助の髪の毛はきらきらとかがやく青玉のようだった。瞳は翡翠。
伊之助が元来身に着けているうつくしさは、ご婦人たちが膨大なお金を積んで手に入れる宝石よりも、ずっとずっとうつくしい。
粗削りな生きたうつくしさは、いつもわたしを魅了してやまない。


「いつかわたしにも、伊之助のいちばんを見せてくれる?」
「いちばんの特別さがお前にわかんのかよ」
「わかるよ、だからわたしのいちばんやはじめてはぜんぶ伊之助にあげたのよ」

「じゃあ、次のお前の生まれた日。なんかを贈んのが人間の習わしってやつなんだろ」
「伊之助は約束のたいせつさがわかる?」
「どうなるか知れねぇことをいちいち口にして安心する気はわかんねぇ。けど、お前がそういう不確かなもんを大事にしてるってことはわかる」

「じゃあ約束」


むすんだ小指の下でやまぶきと白いつつじが揺れている。
向こう側では、山々が朝露に濡れた葉をきらめかせていた。
地平線が白く燃える。

磨かれた宝石は、もう原石には戻れない。
いのちをかけてたいせつにすると誓うからどうか連れ戻そうとはしないでほしいと、朝もやに霞んでいく景色に一度頭をさげて、わたしたちは屋敷へと踵を返した。

伊之助の横顔は、うつくしい自然によく馴染んで見えた。
空気のきれいな朝だった。



2020.04.22