白波のリフレイン

海辺を歩いた。
さざ波がくるぶしを撫でるたび、彼がわたしを遠くへ連れ去ってくれるような予感がして、わたしは灰色の海の上にまっすぐと長く伸びる地平線をじっと見つめた。
来る日も来る日も、わたしはここを訪れて、さらさらと細かい砂粒に埋もれる尖った貝殻のかけらをはだしで踏みながら歩いた。
痛いのがよかった。
わたしを責めるようなその痛みがちょうどよかった。立ち止まると泣いてしまうから、わたしは歩き続けた。立ち止まると泣いてしまうのに、立ち止まらなくとも、終いには涙が出た。


義勇さん。義勇さん。
会いたい。
あなたは水だったのに、水はあなたじゃない。
あなたは夜だったのに、夜もあなたじゃない。
わたしをさらってはくれない。わたしを呼んではくれない。
しかしわたしは水面を見つめなければならない。
夜を、そよ風を、月の白さを、うつくしすぎる花を愛さなければならない。あなたの面影を探さなければならない。
あなたを忘れてはならない。
留めておきたいのに遠くなるばかりの記憶を、こうして毎日呼び戻さなくては。
あなたのいない世界で、あなたを覚えていなくてはならないのはとてもつらい。
わたしのなかで生きていきたいというあなたの言葉を、わたしは時折恨めしく思ってしまう。


わたしは毎日、あなたとの思い出を紙にしたためる。同じ内容のものを必ずふたつこしらえて、ひとつは壜に入れて海へ流す。もうひとつは義勇さんとの思い出の品を入れた引き出しの、いちばん下の段へそっとしまい込む。
読み返しはしない。泣いてしまうから。
泣いてしまうと耐えられないくらいにせつなくなって、せつなくなると義勇さんが来てくれるような気がして、暗い現実に、また、絶望してしまうから。

「……義勇さん、会いたい」

義勇さんの残してくれた明るい未来のなかで、わたしが、わたしに限ってがこんな具合にかなしみに暮れていることを知れば、義勇さんはきっと残念がるだろう。
しかし感情をうまく操ることはできなかった。かなしみを抑えることも、せつなさに折り合いをつけることもできないままだった。


海鳴りがした。
おおお、とうなぞこをめくり上げるような、暗く、おぞましい音だった。
一陣の風が吹いて、わたしの髪をひどく乱した。
こぼれたひとひらの涙を突風がさらっていった。頬にずるりとだらしのない痕がつくのがわかった。


「なまえ」


懐かしい音がした。聞き違えるはずはなかった。
白波がくるぶしを撫でた。潮は引かずに、どんどんと満ちてゆく。
わたしはふくらはぎのあたりまでを刺すように冷たい海原にあっという間に沈めて、そのまま、ゆっくりと顔を上げた。
この間にも、短い海鳴りが連続して聞こえていた。
海は灰色だった。波がぶつかりあって白く砕け、濁って見えた。

「なまえ」

もう一度、わたしの名前を低い声がなぞった。
今度はそのくちびるが動くのまで見えた。
喉がぶるぶると震えて、そのたびに情けなく細い息だけが押し出されてこぼれた。

「おいで」

わたしはずるずるとだらしなく流れる涙を拭いもしないでそのままに、重たい波を割いて、やっとの思いで二歩、三歩と前へ進んだ。
一層とおおきな海鳴りがして、地面が揺れたのか眩暈を起こしたのか、視界がぐらりと揺れて、膝と両手を冷たいうなぞこに着いてしまう。
塩辛いしぶきが頬を濡らす。水面がおおきく揺れている。
伸びてきた腕がわたしを引き上げる。確かなぬくもりを感じる。


「……義勇さん」

「よくやった。辛かったな」

「義勇さん」

「ひとりにさせてごめん」

「あ、会いたかった、ずっと、さみしくて」

「うん、ごめん」

「これでおしまい?」

「ああ」

「もう、ずっと一緒にいられますか」

「ああ」

「わたしは悪い子ですか、いけない子でしょうか。あなたがいのちがけで残してくれた泰平のなかで、毎日泣いてばかり」

「いや、上出来だよ」

「うれしい」

義勇さんは懐かしいかおりのする広い胸にわたしを抱き寄せてくれた。
長い両腕でかたく、かたく抱いてくれた。
わたしの服を重たく濡らしていた海水が、義勇さんのほうへも染みわたっていく。
毎日正しく思い返していたはずの感覚が、実のところまったく間違っていたのだと思い知らされる。
このあまさを、せつなさを、わたしはやはり、正しく保存しきれていなかったのだと。

「よく頑張った」

強い風が吹くのに、水を吸ったスカートの裾はなびかない。
わたしと義勇さんのふたりだけが、生きた世界から取り残されてゆく。
おおきなうねりからはみ出して、ただしずかにくちづけを交わしている。

義勇さんの長い指先がとめどなく流れる涙をやさしく受け止める。
ずっと感じたかった愛しい熱にわたしは震える。

「義勇さん、ずっとあなたを呼んでいたの」
「うん、もう行こう」
「うん、うん。行くわ。義勇さんと行く」

曇天から吹き下ろす風も入り込めないほどかたく、わたしたちは抱きあった。
細かな雨粒がふたりをそっと濡らした。
わたしの干からびたこころじゅうに染みわたる、まさに慈雨だった。




「なまえ、どうした」

波に足を取られて転んでしまうわたしのもとへ、義勇さんが駆け寄ってくる。
なかなか立ち上がらずにいるわたしを不安げに見つめながら、おおきな腕で引き上げてくれた。

「白昼夢を見ていたの」
「平気か」
「……うん、ずっとずっとむかしのこと。わたししか知らないこと。せつないけれど、やさしい夢」
「日が落ちる前に帰ろう」
「うん、帰ります」

義勇さんはわたしの手を取って歩き出す。すこし低めの確かなあたたかさ、正しい感触に、わたしはほっとする。
肌にぶつかっては淡くはじける波の花に、わたしは遥か過去のことを思い出していた。
愛しいひとがわたしへもたらした、世界じゅうでいちばんやさしい死のことを。
どこへ行っても、どんな姿になったとしても、お互いを探しあててしあわせにできる、確かな愛のことを。

灯台のほうから、太い、霧笛の音がする。