パッシング・バイ

義勇さんと喧嘩をした。
厳密にいうとすこし違くて、義勇さんは感情的にもならなければ言い返してもこないから、ただただ、わたしが一方的に癇癪を起こしただけだった。

「わたしはそんなに魅力がありませんか」

衝動的に口をついて出てしまった言葉に、ざっと血の気が引くのを感じた。
そうじゃない、と義勇さんはしずかに言った。
眼鏡をはずしてヘッドボードへ置くとたっぷりとした深いキスをくれたのに、義勇さんの手のひらがふくらみに触れたとき、くだらないプライドのようなものが胸のなかで弾けて、わたしをうんと意固地にさせた。

「暴れるな」
「いや、いやです。こんなふうなのは」
「こら」
「こ、こんなの、情けをかけてもらったみたいで惨めです」

捨て台詞のように言い投げて、最後にそうしたのがはたしていつなのかも思い出せないくらい久しぶりに、わたしはリビングのソファで眠ることにした。
義勇さんの瞳にもめずらしく困惑の色があった。幻滅させてしまっただろうか。
こんなことでは溝が深まってしまうばかりで、セックスどころではない。
そもそも、わたしはセックスがしたかったのではなく、愛されていると知らしめてほしかっただけなのだ。愛情を遠ざけるような言動はいちばんの悪手だった。
結局朝方まで眠られなくて、起きたとき、義勇さんはもういなかった。

昼休憩のときと仕事終わりにチャットアプリで連絡をくれたけれど、なんだか引っ込みがつかなくなってしまって、返事をすることができなかった。




「なまえ」

玄関ドアの開く音がした。いつもはサムターンのまわる音が聞こえた瞬間に出迎えに行くのが決まりなのだけれどそれもできなくて、ソファの上で膝を抱いてじっと固まるわたしの背中に義勇さんが声をかけてくれる。

「ただいま」
「……おかえりなさい」

義勇さんは食卓テーブルへビニール袋をいくつかどしゃどしゃと置くと、背中を向けたままのわたしの耳元へくちびるを寄せる。
その顔を見上げたわたしのくちびるにまたキスをくれる。

「ケーキを買ってきた。すきなのを選んでいい」
「……あ、ありがとうございます」
「バニラアイスとウィスキーも。きらしてただろ」

バニラアイスのウィスキーがけは確かにわたしの好物だけれど、ただ単にその味わいだけを気に入っているのではない。
とびきりにあまいバニラアイスとほんのすこし垂らした琥珀色のウィスキーとが喉の奥を絶妙な温度でしびれさせているときに義勇さんのくれるキスや、もっと深いあまい快感が、そのひとつながりの流れのすべてがすきなのだ。
義勇さんとたっぷり楽しめない今は、逆にむなしくなってしまう、無用の長物である。

義勇さんは素直にお礼も言えないわたしを見てちいさく息をつき、バニラアイスとウィスキーのボトルを持ってくると、ボトルの口をおもむろにひねった。
みちみちという音がしてキャップが回る。
そしてそれらを一度ローテーブルへ置いてしまうと、今度はスプーンと氷を入れたグラスを持ってきて、ソファのへりに座りなおした。

「今日はいらない」
「いつまで意地を張るつもりだ」
「意地じゃない」
「じゃあなんだ」
「……義勇さんのわからずや、おばか、とうへんぼく」
「別れるか」
「わ、別れない」
「素直でよろしい」

義勇さんは呆れ気味にちいさく笑うと、冷えたスプーンをわたしの口内へ押し入れる。バニラとウィスキーがとろりと溶けあう、ひんやりと冷たいのに焼けつくような奇妙な熱が喉のあたりにじんわりと広がってゆく。
差しだされるままに二口目を頬ばると、今度は喉の奥から鼻のあたまに向けて、あまったるい熱が上っていく。眼の奥がすこし黒っぽくなる。
泣く寸前にも似た熱さに頭がくらくらとしてきてしまう。
義勇さんは時折ロックグラスでウィスキーを舐めながら、わたしのほうを見つめている。


悲しくなってしまう。
義勇さんが忙しいのはわかっているのに。
わたしなんかはどんなに忙しくともすこしの時間さえあれば義勇さんへ触れてしまいたくなるから、どうしても割り切れなくなってしまう。つい、わたしの物差しで義勇さんの愛を測ろうとしてしまう。わたしが義勇さんへ触れたくないときなんてない。キスじゃ足りない。わたしの愛は、言葉でもセックスでも足りない。
わたしはただじっとしているだけでは、義勇さんへの持ちきれない愛に押しつぶされて死んでしまいそうになる。
満足に触れてもらえないということは、わたしにとって、義勇さんの想像を絶するような孤独を伴うことなのだ。


義勇さんの手が伸びてくる。頬を包んでそのまま耳の後ろのほうまで通り過ぎてゆく。いたずらな指先が耳をなぞる。
くちびるが深く合わさって、くぐもった声がこぼれる。怠くしびれた口内を、義勇さんのとろけるように熱い舌が舐め溶かしていく。
わたしはバランスを崩してソファへ仰向けに倒れ込む。義勇さんは片手をソファの背に、もう片方の手をソファの淵に置いて、何度もキスを繰り返す。
オーク樽の深いかおり。バニラのまろやかなあまさと、義勇さんのくちびるの熱。
わたしは身体を構築するもののすべてをほどかれて、だんだんとかたちを失っていくような感覚に陥ってしまう。
ショーツの隙間から節ばった中指が滑り込んでくる。

「なまえ、抱きたい」

ほんの一瞬のあいだ、わたしはじっと固まってしまった。
義勇さんがそんなことを言うのははじめてだったからだ。
いつもスマートな彼からそんな言葉が出てくるのが新鮮で、わたしはとても驚いた。
おずおずと頷くと、一層と深いくちづけがなされた。
ゆっくりとやさしいのに一切の隙がなくて、呼吸をすることすらままならない。
なまえ、とあまくかすれた声がわたしの名前をなぞるそのほんのわずかないとまで、わたしは腰元をあまく震わせながら、ちいさく息を吸った。
ぼんやりと視界が霞む。
照明が落とされたのか、わたしの意識が飛んでしまいそうなのか、どちらなのかはもうわからなかった。