31.5:ふたり

包丁のまな板を叩く軽快な音がすきだ。
機嫌良さげに揺れる背中も、おれが声をかけるまで帰りに気がつかなかったときの慌てふためく姿も、遅れてこぼれる花のような笑顔も。
「おかえりなさい」と彼女がほほえむたび、こころに花の咲きこぼれたような気分になる。
彼女のほほえむ場所が自分の帰る場所なのだと感じる。それがちいさな庵であろうとおおきな屋敷であろうと、天国であろうと、地獄であろうと。


土間はすっかり姿を消し、キッチンの床に貼られるのはワックスでつやつやに塗り固められたフローリングになる。
電磁調理が普及して、便利なキッチングッズが大量に出回る世になった。
まな板を叩く、ととと、という音は変わらない。
「おかえりなさい」と彼女が笑う。「ただいま」とおれは頷く。キスをする。
しあわせはむかしより手ごろになった。
彼女を手放したくない気持ちは変わらない。



夕日のきれいに見える西向きの部屋。
あと二往復もすれば、おおきめの家具以外はすっかり片付いてしまう。

無機質でがらんどうで、空が赤々とする黄昏前以外はいつもひんやりと、さみしげな色をしていた部屋。
ここがたくさんの色や家具であふれて手狭になってしまうなど、彼女と会うまでは想像もつかないことだった。

「こんなに広かったんですね」
「お前が来てからあっという間に狭くなった」
「もう、わたしのせいにして。次から次へと家具を買おうとしていたのは義勇さんのほうですからね」
「先に欲しそうな顔をするのはお前のほうだ」
「義勇さんはわたしをあまやかしすぎなんです」
「ほかにたいした趣味もないからな」
「お年寄りみたいなこと言って」

彼女は穏やかに笑う。風に花がそよぐように。
しあわせをかみしめるようにゆっくり言葉を紡ぐのがすきだ。


あとのおおきい家具などは、夜に宇髄たちが解体と運び出しを手伝ってくれる。伝手でトラックを出してもらえるらしい。

色々と悩んだが、引越し先は今の部屋から徒歩で行かれるくらいの場所にした。
錆兎たちは今でもよくおれたちの元へやってくる。やれクーラーがついているからだの、やれ近くへ来たからだの、あるときはさみしいと思って、などと言いながら。
ここへ越してきたときには夢にもみていなかったことだが、思い出はこの部屋で数え切れないほど生まれた。離れがたくなる場所ができることは、うれしくて、同時にせつないことでもあったらしい。

「今日はあの広くてきれいなバスルームで長風呂にしましょうね」
「宇髄たち、泊まる気満々だぞ」
「それはうれしい誤算!でも、お布団セットが届くのは明日なの。だいじょうぶかしら」
「転がしとけ」

新居を探している途中、不動産の整理をしている親戚から、古い一軒家を勧められた。元々は大正初期に建てられた家があったそうだが、震災でほとんど倒壊してしまったという。
相当な思い入れがあったらしく、元の所有者が倒壊前の邸宅を模して造らせたのがその物件で、ことのいきさつを知っているだけに取り壊すのも忍びないと悩んでいるそうだった。

彼女もおれも一目で気に入ったけれどそこに決めなかったのは、今のところからはすこし遠く、車でないと行かれないような場所だったからである。
後日、引き払うのを一度やめにしたと連絡が入った。いつか譲り受けたいと伝えた。そう言うと思った、と電話口で彼は笑った。
遠いむかしに住んでいた家に似ている気がした。生垣の椿がうつくしかった。


さみしがりやの友人たちのために合鍵を作って、新居で待つ彼女の元へと戻る。
扉を開けると、まな板を叩く音が聞こえた。と、と、と、と規則正しく響く軽い音。
まもなく水を流す音がして、彼女が駆けてくる。


「おかえりなさい」
「ただいま」


抱きとめるときのここちよい重たさと、ふわりと立ち上る彼女のあまいかおり。
リノベーションあとの、新しい塗料と接着剤のにおい。
煌々と降り注ぐ西日の色。
ふたりの影の焼けつく玄関。一輪挿しのラナンキュラス。
彼女が笑う場所。おれたちの帰る場所。