1:追い風は光る

やさしいにおいがした。
まぶたがやたらと重たい。
まぶたのみならず、身体中すべてがとてつもなく重たかった。
どこもかしこも思うように動かないから、すこしのあいだ、おれは朧げなまどろみのなかにいた。

やさしいにおい。
先生の家の、おれをこころの芯からあたためるにおい。
先生の。そして、錆兎の。
そう、錆兎の。


走馬灯のように雪崩れ込んできた途切れ途切れの記憶にざっと血の気が引いて、飛び跳ねるように半身を起こした。
左肩に引っかかっていた羽織がぱさりと布団の上に落ちる。ひどく汚れていたがよく見覚えのある柄だった。錆兎のものだった。

「冨岡さん…」

枕元には見覚えのない少女が座り込んでいて、起き上がったおれの顔を見るや否や、瞳を細めぽろぽろと涙を流しはじめた。
額にあてられた手のひらが、そのままするすると下がってきて頬を包む。慈しむようにやさしく、親指が下まぶたを撫でた。

曖昧だった記憶が徐々に思い出されて、心臓が破裂してしまいそうなほどどくどくと激しく脈打つ。
そうだ。おれはあの夜鬼に襲われて、そう、藤襲山の、そして錆兎が。
血で霞む視界のなか、おれは錆兎の背中を見た。確かに見た。


ぱたぱたと走り去っていった少女はやがて先生を連れて戻ってきた。
おれはなにも言えなかった。先生はちいさく震えていた。
おれを力強く抱きしめると「よく生きて帰ってきてくれた」と噛み締めるように呟き、ひとしきり労いの言葉をかけてくれた後、空白の時間に起きたことをぽつりぽつりと話して聞かせてくれた。
少女は枕元に茶器を置くと、そのまましずかに部屋を出ていった。


その後のことはよく覚えていない。
なにか口を開いたかも、なにも言えなかったのかも、覚えていない。
死にたかった。
とにかく死にたくてたまらなかった。
死んであいつが戻ってくるのならどんなにひどい死に方をしたって構わなかった。
そんなことで片付いてくれる問題だったら、どれだけよかっただろうか。どれだけ救われただろうか。
誰かがおれを叱って、殴り倒して、斬り裂いて、殺して、そうしてあいつが戻ってきてくれるなら。
それが叶わないのなら、時を戻してほしい。
ほんの数日だけでいい。
そうしたら今度は一緒に戦える。盾にもなれる。
絶対にしくじらない。誓うよ。


後悔も懺悔もなにもかもを飲み込めないまま何日もが過ぎていった。
選別で錆兎に助けられたという少女が、来る日も来る日も着替えと食事を運んできた。
手をつけなくとも、盆ごとひっくり返しても、文句やため息をひとつだって吐くことはなかった。
彼女のその従順な態度が、錆兎ひとりを犠牲にしてしまったことへの罪滅ぼしであり、やりどころのない罪悪感を消化するための行為に過ぎないことは明白だった。
彼女の独善的な行為はおれのこころを余計に奥へ、奥へと沈めていった。

おれの気持ちはどこへもやれない。
どこかにやって消化していいものでもない。
手短にできる親切で償った気になって満足なんかしていいものではない。
しかし、今思えば、おれのなかのやりきれない思いは同じように彼女へ向いていたのかもしれない。
死にたくて消えてしまいたくて、何度用意されたものをだめにしてもなにも言わずに耐えてくれる彼女にあたることで、どうにかして溜飲をさげようとしていたのだ。きっと。


ある夜、湯飲みの破片を拾う彼女と目があった。
泣き腫らし落ち込みきった暗い瞳だったが、その奥は、きらりと光る水面のように透明だった。
彼女は下くちびるを噛んでしばらく俯いていたが、その後ゆっくりと喋りだした。

「申し訳ないと思っています、ほんとうに、冨岡さんにも…錆兎さんにも」

今のおれがどんな言葉をも受けつけられない状態であると表情から察したのか一度口をつぐんだが、彼女はそのまま続けた。

「わたしはきっと、これから死に場所を探すように、ただそのためだけに生きていくのかもしれない。生き残ったことをひたすらに後悔しながら。でも、冨岡さん、あなたが生きていることには絶対に意味があるはずです。必ず。だから、どうか、自分を責めすぎずに生きていってほしい」

その後自分がなにを口にしたのか、あまり記憶がない。
ただ、慟哭するように怒鳴り散らしたおれを、彼女は赤い瞳でずっと見つめ続けていた。目をそらしたりはしなかった。
責めているようにも受け止めようとしているようにも見えた。
どちらにせよ、おれは自分が情けなくて情けなくてしかたがなかった。
おれが殺した。おれが錆兎を殺したのだ。
おれも、錆兎も、皆そう思っているに違いない。
おれが伸びてなどいなければきっと救えた。錆兎は多くのひとを庇いながら戦わなくて済んだ。
しばらく喚いたのち、堰を切ったようにどっと溢れ出してきた怒りは一抹も残らずに消え失せ、今度はたとえようのない虚無感がおれをすっかり飲み込んでしまった。
そこからはなにも言えなかった。彼女もなにも言わなかった。


ある時、とうとう涙も枯れたのか、まぶたの奥がずんと重たくなって何も考えられなくなった。
起き上がるとぐらりとひどい目眩がした。心臓がじくじくと痛い。
しかし、先刻までの、焼けるような身体を燃やし尽くすような痛みではなかった。
そのまま足を引きずるようにして縁側まで出た。
ぼうっと腰をかけているとぬるい風が何度も何度も頬を撫でた。
頑張れ、頑張れ、と言っているようで、涙が出た。
都合のいい思い込みだとわかっていても、止まらなかった。

かちゃり、と陶器同士のぶつかる音が聞こえた。
横に置かれた盆には、琥珀色の飴玉と金平糖の乗った小皿と、花のようなかおりがする飴色の茶の入った湯飲みが並んでいる。

気づけば空は宍色に染まっていて、ずっと向こうからゆっくりと混色するように藤色が差してきた。
太陽が地平線に溶けていく。
最後の力を振り絞るように、燃えるように、煌々とかがやいて。


「宍色のひかりが、わたしたちの背中を押してくれています。だから、歩かないと」
「おれは…」
「繋いでいくんです。糸のように細い存在でも、それがわたしたちにできる唯一の禊だから。これからはきっと、そうして生きてゆかないとならないから」


薄明のなか、一陣の風が吹いた。
やさしいにおいがした。通り抜けた風の向こうで切れた雲間で、宍色のひかりがきらりとまたたいた気がした。

その晩彼女がここを発ったと先生から聞かされた。
次の日には刀鍛冶が訪ねてきた。
生きていかなくては。