2:祈りはふくよかに

あの夜のことを今でも夢に見る。
風のように舞いわたしを助けてくれた、こころやさしい少年。
白い羽織は羽のようで、宍色の髪の毛がとてもうつくしかった。
手当てのために脱がせた小袖を指して「もしものことがあれば冨岡義勇へ」と言い残し、休む暇もなくまた羽織をはためかせながら、また樹海の深くへと吸い込まれていった。
そして、それから幾度夜を重ねても、錆兎さんが戻ってくることはなかった。

ほつれた布に針を通しながら、わたしは何度も何度も悔いた。
代わりに死んであげられなくてごめんなさい。弱いわたしが生き残ってしまってごめんなさい。
いのちを、想いを、繋いでいきたいのに、わたしはあまりにも非力だ。


再び錆兎さんの小袖へ針を通す。
やさしいにおい。やさしさのにおいがする。
あたたかく、彼を照らすにおい。
宍色の夕日のように彼を包むにおい。
ひと針ひと針、彼らの思いや絆の繋がりが、やさしい未来を手繰れるようにと祈りを込めながら縫い進めていく。
どうか途切れず、遠くどこまでも、いつの世にも繋がっていきますように。


「出来上がりました。冨岡さん」

わたしのちいさな庵に冨岡さんが訪ねてきたのは二日前のことだった。
錆兎さんと亡くなったおねえさんの着物を羽織に仕立て直してほしいと言いにきたのだ。
彼の師範である鱗滝さんは嗅覚が常人よりもはるかに優れているらしく、わたしの修繕した小袖に使われている糸が藤の花を特殊な力で撚りなおしたものであることを彼に教えたらしい。
先日のことも言葉すくなにだけれど、謝ってくれた。
瞳の奥を見ているとわかる。冨岡さんはあたたかいひとだ。


「半身頃ずつ残っているんですが、これはどうしますか?小物に加工することもできますよ」
「持っておいてほしい。有事の際に、すべてが消えてしまわないように」
「じゃあ、これにしまっておきましょう」

部屋の隅にある赤漆の子箪笥を持ってくると、冨岡さんはすこし戸惑ったように見えた。
ふたりの形見の布を丁寧に畳み一番上の段に入れる。
この箪笥もまた、養母からの形見であった。
つやつやに塗り固められた赤い木板に金の豪奢な飾りがとてもうつくしくて大のお気に入りであるが、なかにはなにも入れていない。
藤色の掛け布で覆ったまま、ずうっとそのままにしてあった。
わたしには、誇り、繋いでいきたいものが、なにもなかったからだ。

冨岡さんは名残惜しそうにふたりの形見の入った引き出しをじっと見据えていたが、やがて目線をふいと外し、庭先の藤棚を見やった。
そよそよと風が吹いて、あまいかおりを運んでくる。

「ねえ冨岡さん。この器に、冨岡さんのなくしたくないもの、戦地へ持ってゆきたくないものや残したいものを思いながら、藤の花びらを摘んできてくれませんか」

冨岡さんはすこし眉を顰めたあと、しずかに立ち上がり庭へとおりて行った。
藤棚の前でなにやら沈思したかと思えばやさしい手つきで花びらを摘み取っていく。ちいさな容器はみるみるうちにふくよかな藤の花びらで満ちていく。

硬そうな髪の毛がさわさわと揺れている。
涼しげな横顔は得も言われぬ憂いを帯びていて、わたしはまた自分の無力さに胸が痛んだ。

「たくさん摘んできましたね」
「思いはすべて持っていく。忘れない。目も背けない。でも、ここにも残していく」

繋いでいけるように。
冨岡さんはそっとそう一言言い添えるとしずかに目を伏せた。
深く傷ついた冨岡さんの、まっすぐなこころの核は失われていないのだと思う。
このひとは折れてしまってなどいない。強いひとだ。そして、やさしいひとだ。

「名案ですね」

彼のこころを守り導いてくれるであろう、ふたりの思いがつまった羽織を彼の背中にかける。
感謝する、と彼はちいさく呟いた。

わたしは器を満杯に彩る藤色に手をあわせ、しずかに祈る。
どうか彼の思いとこころが、これからもずっと、折れてしまいませんように。
それは残酷なことかもしれない。折れてしまうほうが一層のこと楽であるかもしれない。それでも、いずれ手繰り寄せた未来に、彼のこころが報われることを祈りつつ、どうか。どうかと。