40:誰がためにきみは咲く

うつくしく立派な傘を持っているのに、どれだけ雨が降ろうともさそうとはしない。彼女はそんなやつだった。
誰に遠慮してか頑なに使わないでいるくせに、他人には惜しげもなく貸してしまう。返さなくてもよいと言ってしまう。そういうやつだ。

おれは、ちいさな傘をたくさん持っていた。
どれもこれも大層粗末で、ひとさまに貸せるものとは思えなかった。
雨が降っていた。長雨だった。
おれは恥じるように歩いていた。
彼女はしとどに濡れながら、申し訳なさそうに歩いていた。



彼女に出会っていなければ、どんな人生を歩んでいただろう。
時折、そんなしようもないことを考えてみたりする。
柄にもなくロマンチシズムに浸りたくなるようなとき、自分のなにもかもが彼女の影響をおおきく受けているのだということを、改めて感じずにはいられない。

辿りつく答えはいつも同じだ。
彼女に出会わなければ、自分は死んでいたに違いない。
決戦を迎える前に、否、よしんば生きながらえてしまっていたとしても、たどり着く場所は自死であったと、そう思う。
ずっと、死に場所を探していた。
いのちを散らすそのときにだけ、すこしばかりの救いが訪れて、沈んでしまった者たちや世界そのものから、ようやく、詮方なしとおこぼれじみた許しをもらえるのだと。
功績を認められるのも、腰を下ろすのをよしとされるのも、すべては肉体を手放したその後だと、そう思っていたのだ。

選び取ったもののすべてが正しかったかはわからない。誰かから恨まれているかも。
鬼を狩ることだけがいつも正義ではない。
たいせつなものを理不尽に奪われる苦しみに寄り添いきれなかったことだって幾度もある。



「義勇さん、どうでしょう」

「似合ってる。きれいだ」

「義勇さんもとってもすてき。なんだか悪い気がしてきちゃう。こんなすてきなひとを、自分だけのものにしてしまうなんて」

「裁かれたがりは終わりだ。お前のしあわせがおれのしあわせになると、いい加減腹を決めるんだな。しあわせになって、しあわせにしてもらわなければ困る」

「……責任重大だわ」

「怖気づくか」

「いいえ。すべて承知のうえだもの」

わずかに黄みがかった正絹緞子の白無垢は、その色も、品のよい淡い光沢も、重たそうな生地の描くとっぷりとしたしなやかな曲線も、なにもかもが彼女のやわらかな雰囲気にとてもよく似合っていた。

「ようやくわたしたち、ほんとうのほんとうに、しあわせになれるんですね」

高い綿帽子からちらりとのぞく桃色に上気した笑顔を見れば、でたらめにでもここまで歩いてきてよかったと、ようやく、ようやくそんなふうに思えて、無性に泣きたくなった。
そっと見せられた亀甲柄の赤い筥迫のなかには、そのむかし彼女の庵で摘んだ藤が押し花にされて、懐紙と一緒にいれられていた。
ひみつをこっそり共有したこどものように喉の奥をちいさく鳴らして、いたずらっぽく彼女は笑った。

鼻先を近づける。彼女はすっと瞳を閉じて、くちびるを薄く開く。



おれたちはふたりとも天涯孤独だったから、祝言へは鱗滝先生と隊士たちが数名集まってくれることになった。
誰かが来たのか、外がにわかに賑々しくなる。

残された時間は長くない。
彼女に繋がれたおまけのような人生のなかで、おれは彼女のために、精々、大いにしあわせになりたい。
伝えこぼした言葉のないように生きたい。
その花が枯れないように、水を差していきたい。
どんなときも、いつの日も、おれに向けて咲く花。
ひたむきに咲く、素朴で、繊細で、大輪の、うつくしい花。
おれを許し、支え、生かしてくれた、いとしい、たった一輪の。


「なまえ。おれの人生に、お前がいてよかった」

「わたしは、世界でいちばんしあわせものですね」

「あいしてる」

「あいしています、義勇さん。あなたに会えてよかった。わたしを選んでくれて、ありがとう。つらいときも、苦しいときも、どんなときでも、わたしと生きることを諦めないでくれて、ありがとう」


深くくちびるを合わせる。
おしろいのにおいと、ほのかなミルクと花のかおり。とろけるようなあまやかな熱。
彼女は紅で濡れたおれの口元を懐紙で丁寧に拭き、拭いたそばからまたくちづけをねだる。


そろそろ表へ向かおうと、縁側の曲がり角を玄関のほうへ折れ、二、三歩進んだ刹那だった。
先を歩く彼女の筥迫に挟まれたびら簪が、しゃん、と涼し気な音を立てた。
びゅうと一陣の追い風がおれの背中を叩く。
深い花のかおりがした。
彼女のものとも庭先のものとも違う、藤のようなこっくりとしたあまいかおりだった。
縁側の硝子戸はすべて閉じてある。
おそるおそる振り返る。

まばたきをするまでの、ほんの一瞬のあいだだった。
それはおれの願望の見せた、ただのまぼろしだったのかもしれない。

「義勇さあん」

玄関のたたきに下りながら、彼女がおれを呼ぶ。
おれはもう一度振り返る。
ふたりの影はもう見えない。

「ありがとう。行ってくる。姉さん、錆兎」

もう一度、ふんわりとやさしい追い風を感じる。
うなじをそっと撫でて通り過ぎる。
今度は振り返らなかった。
彼女のあまく透き通る声が、もう一度おれの名前をなぞる。
彼女が口にすると、おれの名前は驚くほどあまい響きになる。

花のような少女。
その手を取って、行けるところまで行こう。
どんなときにでも咲く。どんなときにでも、いつの世でも。きっと。
その深いかおりに誘われて、きっとまた会える。

ちいさく手招きをしながらほほえむ彼女の横髪を、どこからか吹く風が、そうっと揺らした。