39:期日

夜色の髪の毛に顔を埋め、しっとりと汗ばむうなじに鼻先を寄せる。
長い外はねのあなたの髪。深い夜色の、わたしの頬をくすぐる、長い髪。
組み敷かれるとこちらへさらりと垂れて、いつもわたしを魅了した。

「義勇さん、すき。髪を切っても、どんな姿になっても、なにになっても、どこへ行っても」

わたしのふくふくとやわらかい肌が義勇さんの胸板に沈むように合わさって馴染んでいる。すこしの隙間もなく、わたしたちのあいだにあるのは湿った肉の壁のみだ。
下からゆるゆると突き上げられて、わたしは吐息ともつかない声をあげる。わたしの音は義勇さんの耳のうしろあたりで響いて、豊かな黒髪に吸い込まれていく。

急に呼び立てられる心配もわたしたちにはもうなかった。
義勇さんとの情事はいつもよりもたっぷりと長く、ゆるく、やわらかく続いた。
義勇さんはいつもまるで急いでいないというふうにわたしを抱くけれど、今日はとびきりにゆとりのある様子だった。
わたしの身体の隅々をそのおおきな左手でくまなく撫でた。右腕は、ずっと、わたしのこころを抱いていた。

「どうした」

義勇さんはしずかに濡れたわたしの頬にくちびるを寄せる。

「こんな日が来るなんて、思ってもみなかった」

「うん」

「しあわせです」

言葉にできない思いでいっぱいだった。
言い尽くせない思いは次々と涙になって流れた。
消えてしまったいのちの上に立っている。この日々も長くは続かない。
しあわせと感じることは、いけないことだろうか。ゆるされないことだろうか。あまりにも不謹慎ではないだろうか。
しあわせを否定して謹んで生きていくべきだろうか。そんなこと思ってはいけないと、そんなことを思っていてよいのかと自責して。
それでも、長い人生のなかのほんのひとしずくでも、こうして惜しみなく熱を渡しあえる時間の訪れたことが、今はとてつもなく、うれしいのだ。

「生き残ってしまったけれど、たくさんのひとをなくしてしまったけれど」
「なまえ」
「……義勇さん」

うれしくて、そして同じくらい、せつないのだ。




もっともっとと言われるうちに、義勇さんの髪の毛はあっという間に驚くほど短くなってしまった。
焦ったり心配したりと忙しなくおどおどするわたしを鏡越しに眺めながら、義勇さんはずっと楽しげだった。

「なまえ」
「なんでしょう、義勇さん」
「祝言をあげよう」

散髪後の後片付けをするわたしに、義勇さんは言った。こともなげに。まるで挨拶でもするみたいにそっとなめらかに。

開けたままの戸の隙間から、夜風が花びらを乗せて滑り込んでくる。
わたしは、わたしたちの関係に、これ以上名前がつかなくともよいと思っていた。それが義勇さんの考えの至るところなのであれば、もうどのようなかたちだってよいと。
わたしの欲ばりも一旦底に行きあたり、あとはふたりのたどり着くところで堰を切るのみだと思っていたのだ。


「おれの生きているうちだけでいい。妻になってくれるだろうか」

「一生、一生添い遂げると誓います」


わたしは一度ぎゅうと強くその首に巻きついて、額や鼻どうしをうれしさやせつなさにまかせて擦りつけた。
義勇さんはくすぐったそうに目を伏せて笑う。しずかにじゃれながらくちびるを合わせた。先に泣いたのはわたしだった。


いつも自信なさげなひと。自分の価値に気づかないふりをする。無価値だという顔をする。
他人のやさしさや、たとえば空のきれいなことなどが、どれだけこのひとを卑屈な気持ちにさせたのだろう。
今は、わたしのほほえみひとつで、こんなにもしあわせそうに目を細めてくれる。花の咲くことを喜んでくれる。
長いくちづけのさなかに、わたしの頬をたったひと筋の涙が濡らした。
今はもう、かなしいだけじゃない涙を流すことができるひと。
わたしのあいするひと。

雨降りばかりの人生で、こんなにもおおきな愛に生かされることなど、一体誰が想像できただろう。

わたしを花のようだとたとえるひと。
もしわたしが花であるならば、枯れてしまうばかりのわたしにそっと水を差し続けてくれたのは、ほかでもないあなたである。
腐らぬくらいのやさしさで、そよ風でも吹くようにそっと、絶え間なく、わたしがずっと、笑えるように。


はじめて屋敷に来た日の夜のように、わたしたちは並んで中庭を見つめた。
すっかり春らしくなり、桜と椿たちがほほえんでいる。
あの日は初冬の冷える日で、空がうんと高かったことと、冷たいつまさきとのぼせる頭との温度差で身体じゅうがひそかに混乱していたのを覚えている。

「うつくしい眺めをありがとう」
「義勇さんのために、みんな咲くんです。ここの花は、みんな義勇さんがだいすきだから」

かつて荒間格子の陰のみが落ちていた縁側には、石灯籠や大小様々な花たちが複雑な模様を描いている。
四角く切り取られた空は相変わらずうつくしい。
わたしはふたりで見上げる夜空のなかでも、ここから見えるのがいちばんすきだ。こうしているときに見る空が。

義勇さんの低くてあまい、すこしかすれた声がわたしの名前をなぞる。
くちづけを交わしながらそのまま冷えた板敷になだれ込む。
月夜にそよぐ花々と義勇さんのうつくしく白い顔が、息を吸うあいまにはっきりと見えた。
胸のつまるほどのしあわせに、わたしはまた目を閉じた。