1:オフィスは灰かぶり

悪くないと思う。
働いている会社も、今の日々も。
特段楽しいことがあるわけではないが、これといった苦痛もない。
ごく歩きやすい靴をはいて、つまらなくも平坦な道を歩いている。
これがいいことなのか悪いことなのかはわからないけれど、不幸だというには贅沢すぎるとは思うから、きっとわたしは、それなりにしあわせなのだろう。


黒いオフィスサンダルをつま先だけひっかけてぷらぷらと揺らしながら、肌なじみのよいリップをくちびるに滑らせる。
ありふれたオフィスレディという、世間がなんとなく決めた枠のなかを、わたしはただゆらゆらと泳いでいる。
そのなかでわたしは最低限の意思しか持たないただの個体で、浅くてぬるい生け簀を、ここちよくとも不愉快とも感じないまま、日々をなんとなくやり過ごすのだ。

Aランチの食券を二つ折りにしてしばらく、四つ折りにしてすこし経ったところで、やっとカフェテリアスペースの入り口に待ち人の姿を見つけた。玄弥くんだ。
背の高い玄弥くんは、遠くにいてもよく目立つ。

「ごめん、待ったか」
「ううん、だいじょうぶだよ。玄弥くんなににしたの?わたしはね、Aランチ」
「久々にまずいラーメン食おうかな」
「この前ももう食べたくないって言ってたのに」

わたしのささやかな昼休みはいつも、こうして玄弥くんと他愛のない会話をしながら過ぎていく。
大学が同じだった玄弥くんと同じ会社のスタッフだったことに気がついたのは、玄弥くんがわたしの部署へ移動してきてからだった。
特に仲が良かったわけでもなかったけれど、知り合いとの再会というのはそれなりに盛り上がるもので、同じ部署になってからというもの、わたしたちは社内にいるほとんどの時間を共に過ごすようになった。
うちの社員は一部の部署以外はほとんどが男性で、無神経で大様なメンバーのなか、細やかな気配りのできる玄弥くんはとてもこころ強い存在であった。

「お前、すきなやつとかいねぇの?」
「いたらもっと、きらきらしてるんじゃないかなあ」
「きらきら」
「うん、きらきら。今は泥みたいでしょ。恋をしたおんなのこからはきっと、こう、もっと、きらきらのオーラがでるの」
「ふうん、そういうもんか」
「ううん、わかんない。適当」

それはわたしにだって、恋に恋したあまい思い出のひとつやふたつがないわけではない。
しかしそんなものは遠い過去のお話しである。
無論、意図して恋愛を遠ざけているわけではないけれど、周りに紛れるようになりを潜め、ただ息を吸ってはくだけの毎日にときめきのエッセンスが落ちてくるはずもなく、かといって"あたり"か"はずれ"かもわからないそのひとしずくを受け止めるためだけに貪欲に構え続けるような気力があるはずもない。
花でいうならば枯れているのだ。水も欲しがらずに勝手に枯れていった、あわれな花なのだ。

「いいひと、だれかいない?」
「…雑なフリだな」
「玄弥くんのまわり、格好いいひと多いじゃない」

そんなことを言ったのは、ほんとうは濃いわたしのおんなとしての部分が若干の燻りを見せたからだ。ありていに言えば見栄である。
玄弥くんはすこし困っている様子で、眉をひそめて首を傾げたあと頬杖をつき、しばらくのあいだちいさく唸っていた。

「たとえば誰がいいんだよ」

今度はわたしが困る番だった。
枯れていないふりをするために口をついて出た言葉に、具体的な質問で返されるとは思っていなかったのだ。

「ううん、ええと、時透先輩、とか」
「時透さん?なんでまた」
「…ぼ、ボールペンを拾ってくれたから」
「なんだそりゃ」

時透先輩は会社を支える幹部のひとりだ。
いつも気だるげで、何事にも無関心といったつんとした態度が印象的なひとである。
名前を出したのは、ボールペンのエピソードをたまたま思い出したからで、深い意味はない。
社長が古くからの知り合いを集めて立ち上げたというまだ歴史の浅いこの会社は、とにかく幹部とその直属の部下たちとの仲がいい。
この面子がまたもれなく容姿端麗で、数少ない女子たちの話題はいつも彼らのことで持ちきりだ。

玄弥くんもまた、立ち上げから数年後に社長から直々にスカウトされて入社した、さるコミュニティを構成するひとりである。
わたしは別に恋人がほしいわけでもイケメン幹部に興味があるわけでもなかったけれど、こういったおねだりには飽き飽きしているのだろう。
なんとなしに出した名前とくだらないエピソードを聞いて、玄弥くんは乾いた苦笑をこぼした。

ジャスミンティーに浮かぶ氷が、涼しげな音を立てた。
もうひと踏ん張りが億劫で、木曜日はすこし憂鬱だ。