2:はじまりはフライデー

金曜の夕暮れはいつも上機嫌だ。
最終チェックを終えた書類をかかえて階段を上り、部長の悲鳴嶼さんまで届ければ、わたしの怒涛の一週間は終わる。
ときにくどくどとした説教をお見舞いされるけれど、ものの数十分も耐えれば、待ち望んでいた休日は毎週等しくわたしのもとへ訪れるのだ。
暦通りに土日はおやすみ。
わたしがこの会社でいちばんすきなところだ。

家に帰ったらお気に入りのバスアイテムで長風呂をして、アラームをセットしないまま布団に入る。
本来の自分は、週末だけわたしのもとへ帰ってくる。
誰に合わせなくともよい自由のなかで、すきな服を着てすきなものをすきな時間に楽しんで、そして月曜にまたお別れをするのである。


夕暮れの西階段がわたしはだいすきだ。
採光のよい自社ビルのなかでもとりわけ明るく、便利な東階段を使うひとが多いために人気もない。
今日も広いガラス窓から、夕映えに染まるビルの数々が見える。
黄金色のひかりは、西階段の踊り場ごとわたしをやさしく包んだ。
こうしているときわたしはいつも、神さまの手のひらに乗っているような気になる。
わたしの神聖な空間に軽快なシャッター音が鳴り響いたのは、向かいのガラス張りのビルからの反射のひかりが、きらりと強くなったその瞬間だった。

唐突なことにすっとんきょうな声が出る。
犯人を特定するのはたやすかった。
ここにはわたしと、そして階段の下でこちらに向けて携帯電話を掲げている彼、時透先輩しかいないからだ。

時透先輩は、濡れ鴉のような深い黒髪をどこからか吹く風にふわりと揺らしていた。
その一本一本が夕映えにきらきらとかがやいていて、まるで上質なシルクの糸やナイロンテグスのように見えた。
腰元まである長い髪の毛は毛先のみが薄浅葱色をしていて、そのグラデーションは、まるで桃源郷の空に霞がかかって深い夜になるのを表しているようだ。
そんな夢のような光景を思い浮かべてしまうほどに、時透先輩はきれいなひとだった。


時透先輩はすこしのあいだそのうつくしくまるい目をただしずかにまたたかせていたけれど、やがて左の口角だけをわずかに吊り上げる。

「け…消してください!」
「なにを」
「写真、写真です…!」

勢いよく階段を踏み外したわたしの片足から、黒いオフィスサンダルが落っこちる。
サンダルはゴムボールのようにおおきく跳ねながら時透先輩の後ろまで転がっていった。

時透先輩は、むなしく横たわるサンダルとわたしの顔とを交互に見やると、高く掲げた携帯電話をからかうようにゆらゆらと揺らす。

「時透先輩、ひどいです、消してください」
「なんで」
「ぜ、絶対ひどい顔だもの…!」
「写りがよかったらいいわけ?」
「そういうわけじゃないけれど…」
「かわいかったから撮っただけ。いいじゃない、一枚くらい。なにも減らないでしょ」
「とにかくだめなんです、インターネットに晒されたり美男子の集まりで笑いものにされるなんてごめんです…!」

おもちゃをちらつかされた猫と飼い主のようなわたしたちの攻防は、飛びついたわたしをかわさなかった時透先輩共々床に倒れ込むことで収束を迎えた。
時透先輩のつややかな細い髪の毛が、リノリウムの床の上に霞のような曲線を描いてうつくしく散らばる。
時透先輩の足のあいだに両ひざをついてごく近い距離で見つめあったまま、わたしの脳みそは驚きと羞恥のあまりに信号を出すことを放棄してしまったようだった。
ただただ顔中に熱という熱が集まっていくのを感じながら、わたしは時透先輩を見つめ続けた。長いあいだ、そうしていたように思えた。

「意外と大胆なんだね」
「ち…ちがうの…」
「きみが起きてくれないと、ぼくはここで眠ることになる」

驚いた様子も焦る様子もなく、時透先輩はしずかにそう言った。
長いまつげに縁どられたプレナイトのようなミントグリーンの瞳の奇妙なかがやきに、そのまま吸い込まれて落っこちてしまいそうだった。

此度の金曜日はそんなふうに、霞を抱くように不思議なここちで過ぎていった。