26:puzzle

携帯電話が短く震えた。ほんの二秒くらいだ。
ディスプレイに表示された名前を確認してから、わたしは素早くバッグと鍵を手に取って、玄関ドアを押し開ける。
これはマンションの前に着いたという合図で、カフェオレかなんかのストローを軽く噛み、気だるげに背もたれにもたれる時透さんを想像すると、自然と足取りの軽くなるのがわかった。

「遅いよ」
「急ぎましたよ」
「ぼくに会うために」
「時透さんに会うために」

満足気に笑って、時透さんはまだシートベルトも着けていないわたしへキスをくれる。
たまらずに、すき、と言う。こんなことがすんなりと言えてしまう自分に戸惑う。照れてうつむくわたしの頬へ、時透さんはまたキスをする。

今日はよく晴れた日で、ドライブをするのにはちょうどいい。
陽に照らされたアスファルトが、星くずをちりばめたかのようにきらめいて、わたしたちをどこぞへと運んでいく。
世界がこんなに鮮やかだということを、わたしはここにきてはじめて気がついた気がする。

「時透さんっていうのは、すこし他人行儀なんじゃないの」

戸惑うわたしをしり目に、時透さんはあどけなく目を細めて笑う。

「まあいいや。きっといつか、呼びかたもなにもかもが、ぼくたちのしっくりくるようになるときが来るよ」

それはきっと、パズルのピースがはまるように。

信号が変わって、景色が流れていく。小川の流れるようにさらさら、きらきらと、目の前を通り過ぎる。
時透さんは前を向いてしまって、会話も終わってしまった。わたしはとても、よい気分だった。
胸のつかえが取れて、これほどまでに晴れ晴れとした気分は生まれてはじめてかもしれないと、そう思った。浮かれているのかもしれない。けれど、浮かれごこちのままいうと、わたしは今、とてもしあわせだ。

「時透さん」
「なに」
「どうしてキスだけはしてくれなかったんですか」

時透さんは一度目をまあるく見開くと、そのままふいと逸らしてしまう。その横顔がすこし赤いように見えた。

何度も身体を交えたのに、時透さんはきっぱりと宣言までして、わたしたちは恋人になるまでのあいだ、ついぞ一度たりともキスをすることはなかった。
どれだけ激しく抱かれても、どれだけ快感に打ち震えようとも、キスのないセックスというものは実に虚しいもので、抱かれれば抱かれるほど、こころの離れていくような気分でいた。抱かれるたび、時透さんのなかのわたしが、だんどんとかたちをなくして透明になっていくような気がしていた。
名前もなく意志もなく、ただ横たわる、あたたかい肉のかたまり。
どのみち付き合う気もなく、ただ身体のみを交えるだけというのなら、わざわざわたしを傷つける必要などなかったのではないだろうか。わたしが時透さんの張った予防線を飛び越えるようなおんなだと思っていたとも考えにくい。
そんなことを思っていると、時透さんがちいさくもごもごと呟くのが聞こえた。

「悪い?」
「え」
「キスは特別だと思ったら悪いって聞いてるの」

口を尖らせて拗ねたように言い捨てる様子がめずらしくて、かわいらしくて、思わず笑みがこぼれてしまう。

「悪くない」
「どうして笑うのさ」
「悪くないですよ」

車内には、わたしのきゃらきゃらという笑い声が響いた。しばらくばつの悪そうな顔をしていた時透さんも、しまいには吹き出すように笑いはじめる。


時透さんに出会ってからの日々は、パズルのピースを拾い上げるみたいだった。
なにもかもに守られていて、こわいものなどほとんどなかったおさないころに戻ってゆくようなここちでもあった。

人間らしい感情を振りかざすということは、おとなになるとリスクを伴うものであり、億劫なことであり、できれば避けて通りたいことであった。ひとをすきになることも、誰かにやさしくすることも、されることも。
持ち合わせていた完璧な日々を粉々に砕いて、負担にならない程度のものだけを携えて歩く、未完成の、それでいてつまらなく完成された世界を、わたしはそれなりに愛していた。
愛すべき普遍から脱却するおそろしさのなかで、どうしてこんなところまで来られたのか、それはわたしにも、よくわからない。
時透さんのいたずらなジャッジに導かれるまま、気がつけばこんなところまで来てしまっていたのだ。
やさしい風の吹く、見晴らしのよい場所。


今日は九のつく日だったので、途中でクレープをテイクアウトして、車内で食べた。
キスはホイップクリームの味がした。
わたしはまだあまえることや欲しがることに不慣れでぎこちなく、時透さんはそんなわたしを笑いながら、慣れた手つきでわたしのあちこちを隅々まで撫でた。


「キスして、時透さん」


わたしの精一杯のおねだりを受けた時透さんは、調子狂うなあ、とちいさくぼやき、触れるだけのキスをくれる。
恋人どうしがする、特別なこと。
手を繋ぐことよりも、言葉を交わすよりも、身体を重ねることよりも、きっと特別でやさしいこと。
時透さんがそう思っていたように、わたしもまた、そうであると思う。何百回身体を重ねるよりも、たった一回のキスがほしい。

すっかり暗くなった窓の外に、星がきらめいている。
ほしいと言えること、ほしいと言ったものをもらえることのすばらしさに、わたしのこころは震えていた。


自分を呪うようにして生きてきたわたしが、今確かに言えることは、今のわたしが驚くほど自由で幸福だということだ。
かがやきも、ときめきも、着飾りたくなるひみつのスイッチも、嫉妬や怒りもちっぽけな承認欲求も、きっとすべてがたいせつなもので、そしてそのすべてがパズルのピースのように、時透さんへ続く道のさなかにぽつぽつと落ちていた。
これは、わたしを取り戻すための旅だったのかもしれない。
おとぎばなしなんかじゃ、呪いを解く方法はもう決まっている。
わたしをかたちづくる最後のワンピース。
夢のようなキスを、ひとつ。