ルピナス

「おかえりなさい」
気温の低い、花冷えの日だった。彼女のくちびるが熱かったから、彼女のほうは冷たいと感じただろう。

おれの恋人は捨ておけないちいさな犬のようだ。
なにをするときでも身体のどこかをあわせていたがるし、瑞々しいやわ肌はいつもほかほかとあたたかい。うなじに鼻をうずめると、ミルクのようなバニラのようなあまいにおいがする。
どんなに疲れていようと、気分が落ち込んでいようとも、どんなときも世界のことわりさえすべて他所にして無条件にやさしくしてしまいたくなるのは、彼女の一種の才能であると思う。つまらない言葉に言い換えれば、惚れた弱みというやつだけれど。
おれが帰ると即座にぱたたと駆けてくるその軽い足音も、まなじりをさげてキスの無心をするあまい笑い声も、いつもおれをたちまちにやさしい気持ちにさせる。かなわない、と思う。

彼女の「おかえりなさい」を聞くたび、こころは無防備なまるになる。まるくて、無防備で、まるごしになる。
抱いたつもりでおおきな愛に抱かれるここちよさ。この感覚なしで生きてこられたことを、今は心底不思議に思う。

「髪、トマトのにおいがする」
「今日はラザニアです」
「うちのミートソースがいちばんうまい」
「肉じゃがのときもロールキャベツのときもグラタンのときも言っていましたよ」

上着を受け取りながらコマーシャルの歌を口ずさんでみたりして、彼女は上機嫌だった。
橙色に灯るオーブンからはチーズとミートソースのいいかおりがしている。
「ただいま」と改めて口にすれば、彼女はとびきりあまやかな声で「おかえりなさい」とほほえんで、熱いくちびるで頬にひとつキスをくれた。

今日がいちばんしあわせであると思いつつ過ぎていく毎日の、なんと幸福なことか。
この極めて特別の上質なしあわせは、はるかむかしから連綿とつながれた、おれと彼女と、家じゅうに飾られた花々だけの、いわば、ひそやかな、家宝なのである。


(4月 ルピナス いつもしあわせ、あなたはわたしの安らぎ)