花桃

朱鷺色にぬれたくちびるが、軽い音を立ててトーストに食い込んでいく。扇形に広がる黒々としたまつげが上向きになる。目があった。

「どうした」
「わたしの恋人は、今日もすてきだと思って」

一息置いてから「ばか」とちいさく笑って、義勇さんはまたトーストをかじった。長い前髪がさらりと揺れる。くちびるの端を赤い舌がちろりと舐めた。
いくつもの夜でわたしのあちこちを熱くさせたその指やくちびるや舌先が、食事をしたり掃除をしたり、日常のなんでもない動作に使われていることを、わたしはたまにとても不思議に思う。


陽気なジングルが流れて、ニュース番組が天気予報のコーナーに切り替わる。
天気予報は必ず見ることにしている。今日が晴れでも雨でも曇りでもなんだっていいし、今のスクランブル交差点の様子を知りたいわけでももちろんないけれど、この時間に放送されるこのコーナーを毎日いっしょに見るということが重要なのだ。
そういうちいさな決まりごとや習慣がわたしたちの関係を構築していく。
たとえば義勇さんが泊りがけの出張に行ってしまってもこの時間になればきっとわたしのことを思い出してくれるし、わたしももちろん義勇さんとの朝をとても恋しく思う。そして、メールを送りあったりするのだ。


「今日は花冷えするみたいですよ。上着を出しておきますね」

義勇さんは食器をさげるついでというふりをして、小指でリップクリームを塗るわたしの前で立ち止まり、あまいキスをくれた。
こういうときのキスが必ず、正面をはずしてすこし横からやって来ることにわたしは気がついている。口角のあたりからじんわりと広がる、とろけるようにあまくてやさしいくちづけ。
リップクリームを塗ったあとの、濡れたふかふかのキスが義勇さんはすきなのだ。もちろん、わたしも。

残された熱を確かめるようにくちびるに触れてみる。
なんだかまた無性に恋しい気持ちになったから、わたしはふかふかのキスを求めて、急いでキッチンへと向かった。

朝は十分すぎるほどの余裕をもって起きること。
これもわたしたちのたいせつな決まりごとのひとつである。


(3月 花桃 わたしはあなたのとりこ)