マリンフォードから暫く。
海軍の支配下からやっと安全圏に出たようだ。監視を任せていた船員から艦を浮上させるか指示を求められたので、そうしろと短く答えてほとんど終わった手術の仕上げに取り掛かる。

麦わら屋と海侠屋の手術を終え甲板に出ると、ベポたちが、麦わら屋を追ってきたらしい海賊女帝と話をしていた。海軍の軍艦で追ってきたようだが、海兵は乗っていないか身動きが取れないようにしているらしい。噂に聞く女帝の能力が本当だとしたらおそらく石にされているのだろう。
女帝はどうやら少なくとも麦わら屋にとっては敵ではないらしく、心配そうにその安否を問われた。
延命の保証はなく予断を許さない状況であると正直に伝えると、女帝は不安そうに押し黙った。

軍艦から轟音と言っても差し支えない大声が響く。
声の出所を窺うと、明らかに一般的なサイズでない二頭身のオカマがこちらを覗いている。船員たちが驚きにひっくり返った声を上げた。
軽々しくはない身のこなしで許可もなくこちらの甲板に降りてきたデカいのとまだ軍艦に乗っている一般サイズのオカマたちは、どうやらインペルダウンからの脱獄囚で、麦わら屋に恩があるらしい。

敵ではないことさえ分かれば細かい事情はどうでもいい。
二頭身に麦わら屋と友達かと聞かれたが、これもまた正直に答えておいた。
そこへ、船員が誰かを制止する声がした。


「おい待てって!!ジンベエ……!!」


さっきまで命を繋いでいた患者の一人が、甲板に出てきた。

血の滲んだ包帯がその巨体のほとんどを覆い隠しており安静にしていなければならない大怪我であることは一目瞭然で、何より自分の体の状態は本人がよく分かっているはずなのに、海侠屋はじっとしてはいられない様子だ。

礼を言うためだけに出てきたわけではないらしい。

医者として、寝てろ死ぬぞと一声掛けたが、あの戦争の後では大人しくしていろというほうが無茶かもしれない。
たった数分あの戦争の舞台に足を踏み入れたが、その僅かな時間で何度も死の危険を感じた。
海上に侵入しただけでこうだ。陸地は地獄だっただろう。海軍大将どもが挙って麦わら屋の命を狙いに来る様子は、まさに地獄の鬼が襲い来るようなものだった。

しかし本人は意識を失っているというのに、周りの人間が奴を生かそう逃がそうと動いた結果、奴はまだ息をしている。
かく言う自分も動いた一人だが、こんなところで失うには惜しい人材だと確かに思った。自ら地獄に飛び込んで命を懸けて戦った海侠屋の行動を、理解できないわけではない。

だがおれは本来外科医だ。患者の精神状態よりも体の安静を優先させたい。せっかく手術したのに無理をして悪化されてもつまらない。大人しく寝ていろと言っても聞かないだろうこの男を、どうするか――――

考えを巡らせた時。もう一人、軍艦から飛び降りてくる気配があった。

黒い霧が海風に揺らめき、二頭身オカマと違いこちらは音もなく甲板に着地する。そして霧が濃くなって女の形になるまで、一瞬。注目されていた海侠屋の目の前に現れた女に自然、全員の目が集まる。

霧の中から現れた横顔に、思わず息を飲んだ。


「ジンベエさん……!!」

「ハニー……!?」


喉から振り絞ったような声と共に、女が弱弱しく海侠屋に縋りつく。二人は知り合いのようだ。
人の船に我が物顔で降りてくる奴が多い。
おそらくこの女も麦わら屋の敵ではないのでここにいるのは構わないが、ただでさえ一人で何人分もの圧力を放っている者もいる。この調子で軍艦の奴ら全員に降りてこられ、好き勝手に喋られたら堪ったものではない。


「ハニー…そうか……お前さんも、あの戦争に……」

「…はい。白ひげさんの船に乗らなかったわたしが、彼らと共に戦うなんて、できませんでしたが……」

「ああ、わかっちょる……」

「せめて近くで、加護を…祈りたかった……!」


女はその場に頽れて、顔を覆って静かに泣き出した。
膝をついて彼女の肩に手を置き慰めようとする海侠屋に、部屋を貸すから中でやれと声を掛ける。

都合よく患者を大人しくさせてくれそうな人間が出てきて面倒が減った。
船員に促されるまま船内に戻る背中を二つ見送り、これからの進路について考える。

いつまでも海上にはいられない。いつ海軍に見つかるか分からないし、波に揺られて安定しない船の中では療養するには向かないだろう。
やれるだけのことはやったので、麦わらの回復を待つ義理もない。

突然現れた女の存在など気に留めもしなかった海賊女帝の提案に乗って、船は一度“女ヶ島”に向かうことになった。船員たちがあからさまに浮足立っているのを一言制したが、表面上大人しくなるものの、心の内では女人国への夢を膨らませているに違いない。

遊びに行くんじゃねぇぞ、ともう一言制して、船内に戻る。
食堂を覗くと、先ほどの女と海侠屋がテーブルを挟んで向かい合っていた。

患者はいくらか落ち着きを取り戻しているようだった。
噂を聞く限り、海侠屋は仁義に厚い冷静な男であるはずだ。自分以上に取り乱した女を前にして元々の自分に戻ったのだろう。
女の方も時折鼻を啜る音が聞こえていたが、椅子に座れる程度には脱力した体は元に戻ったらしい。悲愴な面持ちで海侠屋と向き合っていた。
先ほどの二頭身のように、あちらから話しかけられれば応えたが、彼女は話しかけてはこない上に一度もこちらに目を向けない。

弱そうな横顔を見つめて思う。強くはなさそうな女だが、よくあの戦争を生き残ったものだ。
何かの能力者のようだが…そうすると何者だろうか、この女は。海軍側ではないことは明らかで、この様子を見ると火拳屋の仲間だろう。かといって白ひげ海賊団ではないことは先ほど言っていたし、そもそも海賊に見えない。首から膝までを隠す地味なワンピースは見るからに戦闘には向かない。

気を利かせた船員が置いたらしい茶が手つかずのまま湯気を失っている。船内の船員が数人、心配そうな顔で泣き顔の女を気にしていた。
どいつもこいつも。


「ハニー。とりあえず、お前さんの立場は分かった。…これから、どうするんじゃ」

「…今、できることはありません。いつも通りでいるしか……。でも、叶うのなら…エースの大事な人が死んでしまわないように、わたしにできることをしたい」


言いながら、女はまた涙ぐんだ。
女の言葉が閊える度に壁に隠れて様子を見守る船員が反応する。ハンカチをいつ差し出そうかと迷う手が滑稽だ。
この船に女がいることは珍しい。女帝よりはまだ普通のやり取りができると見たか、やけにこの女を気にしている船員たちに呆れる。数少ない女であるイッカクまで仕事を放って来ているのはおそらく物珍しさだろう。

横に立って、おい、と低い声で言うと、船員たちの肩が揃って跳ねた。何してる、お前の仕事があるだろうと窘めると、じゃあキャプテンお願いしますよ!とハンカチを渡された。


「エースがそれを望むわけではなくても。彼のために、何もできなかったから…何かをしていないと、気が狂いそうで……」


どうやらこの女は火拳屋の女だったようだ。そこまで想える恋人を持ったことも、ましてや死別したことも無い自分には彼女の気持ちは分からない。

逆に、火拳屋はどう思うだろうか。愛した女を遺して逝く気分もまた、経験したことがないので分からない。いつまでも自分を想ってほしいと望むのか、いつか違う相手に、自分のものだった笑顔を向けてほしいと望むのか。
少しつまらない気分になる。自分の船で感傷に浸るな。辛気臭い。しかし口に出すとおそらく、まだ隠れて様子を見ている船員から非難されるだろう。不満を抱えながらも、しばらく関わるまいと自室へ向かった。ハンカチは渡さなかった。

しばらく自室に籠っていると、甲板に出ていた船員から報告が来た。
女帝が連絡したらしい九蛇の船が来たと。甲板に上がると、赤く荘厳な船が軍艦と反対側の横に着けている。

潜水艦の何倍もあるその船を二匹の蛇の怪物が引いていて、縦の瞳孔がぎょろりと動いて目が合った。この怪物と共に行けば、海王類の巣の上も安全に渡れる仕組みのようだ。こういう強みが女人国の廃れない秘密の一つかと、頭の中に記録する。

二頭身の無駄に響く大きな声を聞いてか、船内から海侠屋と女が出てきた。
船内に行った時とは違い、怪我の深い海侠屋を女が支えている。本当に支えていたとしたらなかなかの怪力だが、海侠屋は自力で歩行していて、女は重傷人の傍を気遣わずに歩けるほど図太くはないという構図だろうと思う。


「ヴァナータ、ジンベエと行くの?」

「…本当はそうしたいけど……。コアラから連絡があったの。ちょっと…緊急事態みたい。カマバッカ王国に着いたら、この艦は貰ってもいい?」


二頭身に問いかけられて、麦わら屋の回復を見届け、自身も自由に泳げるまではおれ達と共に行くと答える海侠屋。
女も同行するかと思いきやどうやら行くところがあるらしく、まずは二頭身と共に海軍の軍艦に乗るらしい。

海侠屋と既に話はついているらしく、二人は目を合わせて頷いて、互いに何も言わなかった。

そのまま女の視線がこちらに向く。初めて目が合った。

女は複雑な顔をしたと思ったら、こちらに深く頭を下げた。
丁寧で緩やかな仕草。野郎と生活していると、こういう仕草を見ると貴重だと思ってつい目で追ってしまう。


「ジンベエさんと、ルフィを助けてくれて、どうもありがとうございました。深く感謝いたします」


か細く、しかしよく通る聞き心地の良い声だ。
確固たる理由があって助けたわけではないが、危険を冒して保護しに行ったことは事実なので、ああ、と感謝は受け取っておいた。

女は顔を上げると、緊張した様子で握手を求めてきた。
馴れ合うつもりはないが断る理由もない。他意のない別れの挨拶だろうと、気にせずその手を握る。いいな、と離れたところにいたシャチが声を上げた。握手くらいでいいなもクソもあるか。

手が離れると女の視線は一瞬、女帝に向いた。不安そうに瞳が揺れる。

そして、短い逡巡を見せた後、女の唇がおれの顎に触れた。
あッ、ともおお、とも判別のつかない声が船員たちから上がる。うるせェ。


「本当に、ありがとう。さようなら」


揺らめいた瞳の意味を考えていて、油断した。別に油断していなくても避ける必要はなかったので受け入れていただろうとは思うが。

感謝のキスはおそらく頬にするつもりが、身長が届かず顎になったのだろう。
落ち着いていたはずの涙を何故かまたひとつ落として、彼女は身を翻し、二頭身の待つ軍艦へ向かった。
ボウ、と黒い霧が揺らめきながら、梯子も使わず上っていく。

麦わら屋への声援と共にゆっくり離れていく軍艦を見送りながら、髭の横に無意識に触れた。
涙を流した彼女の苦しみに耐えるような表情が、忘れられなかった。




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海獺