うんめいのひと


受験日当日は雪が降りそうな重い曇り空で、ひどく寒かった。

自分と同じように早起きし総出で見送ってくれた、何より愛おしい家族を思い出しながら電車に揺られ、第一志望校に向かう。家族の今後のためにも、炭治郎はなんとかして授業料が免除になる成績で入学しなければならない。これ以上家族に負担をかけるわけにはいかないと改めて気合いをいれるものの、失敗できないという気合いが空回ってひどく緊張してきてしまった。
電車の中は決して混雑しているわけではなかったが、意識しないように気をつけていたさまざまな感情の匂いが入り込んでくる。受験に向かう学生も多いからか、緊張、不安、恐怖といった負の感情がかなり多く炭治郎の気分の悪さは最高潮に達してしまい、一度電車を降りることにした。
ホームのベンチに座り呼吸を整えるが、焦ってしまいなかなか気分が戻らない。どうしよう、このままでは。家族のことを思い浮かべてぎゅっと固く手を握りしめた時、ふと香ってきた匂い。


脳髄が焦げつくほどの甘いいい匂いだ。


溶けてしまいそうな甘い匂いに、とろりとした目で匂いのもとを辿る。
ホームへと降りてきた、見知らぬ高校の制服を着た学生だった。
炭治郎と同じように、大学受験へと向かうのだろうか。くらくらする匂いの中に張り詰めたような緊張の匂いがする。それでもその匂いを嗅いでいると、炭治郎の緊張が溶けていくのがわかる。なんて、なんていい匂いだろう。どうしてこんなにいい匂いなのだろう。もっと近くに来てくれないだろうか。抱きしめて、くれないだろうか。抱きしめさせてはくれないだろうか。
少女は腕時計に目をやって、深呼吸をしている。炭治郎は思わず、そちらにふらふらと近寄って行ってしまう。電車がすべりこんできて、彼女と同じ車両に乗ることができた。
先程の電車よりも混んでいて、少女と程近い距離に立つ。くらくらするほど、すごくいい匂いだ。永遠に嗅いでいたくなる。そんな匂いなのに、意識はだんだんはっきりしてくる。俺、なんでこんな気持ち悪いことしてるんだろう。いくらいい匂いとはいえ、女の子をつけ回すようなことをしてしまった。少女を見つめながらバツが悪くなっていると、ふと少女と目があった。

パチパチと、胸が焼けつくように高鳴る。顔が赤くなる。

「あ、あの!きみも、受験生?」

混乱して、つい話しかけてしまった。少女はえ、という顔をしたものの、こくこくと頷きうん、と小さく返事をした。声まで、かわいい。すごくかわいい。

「俺もなんだ。今日、がんばろうな」

かわいさと溢れ出てきたいとしさに思わず微笑むと、彼女はすこし緊張がほぐれたらしく、さらにいい匂いになってまた小さく、うん、と言って野花のように微笑んだ。この子が笑うと、すごくいいがさらにいい匂いになる。いつも俺に微笑んでいてくれないだろうか。俺のそばで。

この匂いは香水の匂いとか、そういった類の匂いじゃない。この子が持っている体臭の匂いだ。俺は、この子の体臭がすごくすきなんだ。石鹸のにおいと、汗のにおいと。

このタイミングで連絡先を聞くこともできず、何を話したらいいのかもわからず。ただ彼女のいい匂いを脳髄に覚え込ませるように嗅ぎながら、もう大学の最寄駅に着いてしまった。彼女もそうだが、学生が一斉に降りる。混雑の中なんとか彼女を見失わないように歩くが、今の炭治郎にはこれ以上なにをしたらいいのか本当にわからなかった。さすがに会場周辺まで来ると匂いが辿れないほどの混雑で、逆に見つけようとすると電車で気持ち悪くなった時の二の舞になりそうだった。意識して匂いを嗅がないように切り替える。

そう、今日は受験日なのだから。しっかりしよう。
俺が受かったら。彼女が受かったら。また会える。絶対に俺は彼女を見つける。

不思議とそんな自信があった。

だって彼女は、俺の運命の人だ。あんなにぴったりと誂えたようにいい匂いなんだ。俺のためにあるような匂いなんだ。甘さの中にある抜けるような爽やかな匂いも、全部、全部好きだ。きっと俺の匂いも、彼女のためにある。だから俺はこの大学に受かる。彼女もこの大学に受かる。

自分にとっていい匂いだと感じる匂いは、DNAに刻まれているらしいと善逸が言っていた。だから炭治郎は運命のたった一人がきっと匂いでわかるななんて、羨ましそうに言っていたその言葉を思い出す。


ああ、その通りだと思う。





果たして炭治郎は無事志望校入学を果たした。高校まで親しかった善逸や伊之助とは成績の違いで同じ大学には来ないので見知った交友関係はなかったが、自営業であるパン屋の接客で培われた対人スキルもあり交友関係はかなり順調な滑り出しだった。真面目を絵に描いたような炭治郎は教授など年上の人間からの好感度も高く、臆することなく質問もするので講義でも今のところ困ったことはない。家業の手伝いもあるのでサークル所属などはしていないが、充実していないのはそれくらいのものであるはずだった。

ただひとつ、あの日の彼女が見つからないことを除いては。

違うキャンパスなのかと思い、時間を縫って別のキャンパスに赴いたこともあった。あの日の匂いを思い出して探しても彼女は見つからず、途方に暮れる日々。
焦がれていた。どうしてあの日、連絡先を聞いておかなかったのだろう。絶対に会えるなどと妙な自信を持ってしまったのだろう。もしかしたらこの大学は第一志望ではなかったのかもしれない。次に会ったら、もう絶対に何があっても離さない。思いばかりが強くなっていく。


春と夏の間になった頃。ようやく彼女を見つけた。


ひとりで中庭の木のそばに座って、リュックサックの中身を整理しているようだった。下を向いて顔はよく見えない。あの人髪型も違うけれどわかる。
いい、匂い。あの日の匂い。緊張が混じらない、落ち着いた匂い。もう離さない。絶対にきみは、

「あの、!」

思わず走り寄って、大きな声で話しかけていた。彼女はギョッとしたような驚いたような顔で見上げてきた。ゆらゆらと瞳が揺れ、怯えたような匂いがする。どうしよう、そんな匂いをさせたかったわけじゃなくて、そうじゃなくて。俺は、おれは、


「結婚してください!」


いや、違くて、今のは。なんでこんな善逸みたいなこと、違うんだ。言い訳がましいひとりごとを羞恥でひとり呟きながら顔面を覆って、彼女からも戸惑いと一歩引いたような匂いがして。違うんだ、本当に!と言い訳しつつ、それでも強引に、なんとか好きで付き合ってほしいことと、連絡先を教えて欲しいということを伝えることが出来た。変な人だと思われているようだったが、先走りすぎたことはこれからわかってもらえればと思う。

だって俺たちはこれからもずっと一緒にいるのだから。






竈門炭治郎くんは、とても変な人だとおもった。
竈門くん、と呼ぶと物足りなさそうな顔をするそのひとは、どうやらわたしのことが好きらしい。受験前に駅のホームで見かけて一目惚れしたという。絶対に変だし、ありえない。東京の人に遊ばれているのかと思った。けれど会いたいと乞われて毎日のように連絡が来て。拒否するのも自分ごときが断れる立場でもないと思って、気づけばよく一緒にいるようになっていた。

だってわたしは内気で人当たりもよくないし、仮にも告白なんてされたことはない。しようと思ったこともなかった。憧れた男の子はいたけど、小学生の時に彼にお前ブスだなと軽口を言われきりすっかり心は折れてしまったし、大人しく目立たず地味に生きるのがお似合いなのは18年生きてきてわかってしまったことだった。
悲しいことに容姿だって垢抜けていないと自信を持って言えてしまう。勉強が唯一それなりに得意だったけどそれくらいのもので、それだって飛び抜けて才能があるわけじゃない。
どこにでもいる、それこそ河原の石ころのような存在が自分だった。
中学からは女子校だったから男の子と話すのは特に苦手だった。大学でも似たような女の子たちと集まって東京は怖いしまだ慣れないよね、と言いあっては、細く息を吸っている。もしかしたらあの子たちは蛹なのかもしれないけれど、わたしはずっと地中深く埋まったまま出ていくつもりもない。

これからもそうやって生きていくんだと思っていた。

竈門くんは大きな瞳でぱっちりとした二重で、目の色や髪の色が日に透けると赤く見えて素敵だ。特に運動していないと言っていたけどひょろひょろとしているわけでもなく、上背も平均くらいはあって所謂細マッチョという人なんだろうなと思う。容姿だけでも十二分に整っている。
少し一緒にいてわかったことだけど、彼は人当たりがとてもいい。真面目で優しくて喜怒哀楽がはっきりとしていて、面倒見も良い。キャンパスの中を歩くとすぐに竈門ちょっとー、とか炭治郎くんきてー、とすぐに声をかけられてしまうので、会うのはもっぱらキャンパスの外になった。それくらい彼は人気者だったので、ますます何故わたしなんかに告白したのか、とてもおかしな話だと思った。とてもじゃないがこんな素敵な人が隣にいるなんて、絶対に釣り合いが取れない。
けれどそんな心境を悟れるのか良いタイミングで彼は赤い顔をして、深刻そうな表情できみのことが好きだよ、と言うのだ。顔が赤くなる彼につられてわたしも真っ赤になってしまうし、男の子だと意識するたびに顔が赤くなってうまく話ができなくなってしまう。
その度に竈門くんは、そんなわたしを辛抱強く待っていた。


慣れてくると、優しくて楽しそうに話を聞いてくる竈門くんに自分のことを話すのが楽しくなってしまった。
上京して家族と話す機会も多くなく女の子の友人たちもまだ親友というほど親しくなっていない仲で、頻繁に会って話を聞いてくれる彼に懐いてしまうのは必然だったのかもしれない。


気づけばわたしは日常のいろんなことを竈門くんに報告しないと気が済まなくなってしまっていて、竈門くんがいろんな話をしてくれるのも当たり前になっていて。竈門くんがいない生活が考えられなくなっていた。
竈門くんのことが大好きになってしまっていた。

「か、かまどく、ん、す、すきです」

カフェでお茶した帰り道。送ってくれるという彼に甘えて緊張しながらそう伝えると彼はとてもとても嬉しそうにして、俺もだよ、と微笑んだ。
人生で彼氏ができるなんて思っていなかったけど、竈門くんが一緒にいてくれる奇跡を、わたしは大切に大切にしようと思う。いつまで一緒にいてくれるかわからないけど、いつか素敵な思い出として浸れるように、竈門くんに一分一秒でも多くかわいいと思ってもらえる女の子になりたいと思った。竈門くんに似合うようにはきっとなれないけど、そこに近づく努力だけでもしようと、わたしはこの日心に固く誓った。



琥珀糖