01

 ここに来るのはずいぶん久しぶりだ。


 ゆっくりと目を開けると、そこには見慣れてしまった車窓があった。少しずつ湖の上を進んでいくこの列車には美しい夕日がさしている。列車が進むたびにしゃらしゃらと湖面が波をたてて光った。それはまるで宮廷の宝飾品のように計算された、息を飲むほどうつくしい景色だった。
 この列車のつくりは無限列車に似ていて、そうではない。無限列車のそれよりも古めかしいように感じられる。

 ここはわたしの、心の間のようであり、そうではないのかもしれない。自分の存在すらとても曖昧でよくわからない。だがそれでいいのだ。
 わたしは今でもここが何なのかを知らなかったし、知りたいとも思わなかった。今わかっていることは幾つかあって、それで充分だった。
 知ってしまったとき、それはきっとわたしの使命が折れる時。けれどそんな日は絶対に来ない。わたしは絶対に折れない。貴方が教えてくれたことを覚えている。忘れない。絶対に忘れない。
 たとえ全てを失ってしまったとしても心を燃やす。己の使命を果たす。
 死んでしまうその日まで。



 心を燃やせ

 あなたがそう言っていた。



 いつのまにか、わたしの正面の座席に座っている男がいた。左目は潰れ、腹には風穴が開き、べっとりと黒ずんだ血が彼の男らしい輪郭の顎を覆い隠していた。

 匂いはしない。彼は死者だ。

 きっと彼は知らない。ここに来ると必ず姿を現す彼はいつも初心を思い出させてくれることを。それともやはり、彼も実はわたしの心を反映してこの空間から作られているのだろうか。だからいつもわたしの心が折れぬようにとここに現れてくれるのだろうか。

 しばしぼんやりと彼を眺めた。

 ここに来るときのわたしはいつだって疲れている。もう鬼殺隊など辞めたいと、すべてを投げ出してしまいたいと思ってしまうこともある。それは本来のわたしの意思が弱いからだ。
 だが己の使命を思い出させてくれる彼がいるから、わたしは努力をやめることはない。心はどこまでも強くなれる。そう教えてくれたのも貴方だったから。

 「もうやめてくれ。頼む」

 また貴方はそんなことを言うのか。彼はぼろぼろと掠れた声で自身のことを詰るのだ。それがとても悲しいと思った。

 「全て俺が悪い。もう、終わりにしよう。こんな不毛なことは、終わりにしなければ。この列車にこのまま乗っていけば、」
 「杏寿郎さん。これまでの道のりで不毛だったことなどひとつもありません。わたしがそれを証明します。必ず結果を出して見せます」
 「きみはもう限界だ。やめてくれ、頼む」
 「貴方が己の責務を全うするように。わたしにも己の責務がございます」
 「すまない、すまない。でも俺ももう嫌なのだ。きみがこうして傷付いていくのは見るに耐えない。頼む」
 「わたしもいつもそう思っています、杏寿郎さん。いつも、離れていても、どんなときでも。どんな貴方でも愛しています。貴方にひとつも傷がつかないように、いつも祈っているの。あなたが無事、健やかに明日を過ごしていけることを」

 それでも嫌だ!やめてくれ!と大粒の涙を流して子供のように泣きじゃくる彼がとても愛おしい。こんな姿はきっと彼の家族でも見たことがないだろう。そんな彼はどんな彼より美しいと思った。たとえ作り物だろうが今この瞬間目の前にいる彼が、わたしを思って涙してくれていることが嬉しかった。

 煉獄杏寿郎という男は己の弱さを誰にも見せまいと生きてきた人だから。泣くことをよしとしていないし、もしそのような感情が出てきても一人の時に思い返してはぐっと堪えてしまうようなひとだ。握った拳に傷がつこうが、他者にそれを悟らせてはくれぬ。

 一人で全てに整理をつけて生きてきてしまった人。自分を強い人間だと信じているし、その信念のもとで実際に強く生きていかれてしまった人だったから。

 貴方とわたしのゆく道が交わることはもう無い。貴方もわたしも己の使命があり、責務があり、その重さを背負って生きていく。

 最も、貴方の責務は鬼殺隊の柱となるべくして生まれそのように育てられたもので、生粋の重い重いものであった。頼れる父母は道半ばからおらず、己の心の強さをただ信じて鍛錬を積み重ね、弟を鼓舞し父を陰ながら支え、父の後任となり、他の鬼殺隊士を引っ張っていかねばならぬ使命を背負って毎日を生きていた。そしてその重い荷物を他者に背負わせることをよしとしない人だった。
 貴方の責務は煉獄家という脈々と続いてきた血の縛りであり、母からの尊い教えであった。

 炎柱煉獄杏寿郎という一人の青年の尊いいのちは、いつだって貴方だけのものではなかった。

 貴方を知るたびに好きになる。明るい炎の裏にある影をいつだって見ていた。炎の灯りに照らされ希望を与えられるばかりでは我慢ならなかった。
 貴方を助けられる優しい人でありたかった。貴方の重荷を共に背負えるわたしでありたかった。
 その願いはいつだって聞き届けられることはない。その役割を果たすのは、わたしではない。貴方を未来へと繋いでくれる希望の糸はわたしではない。
 なのに、わたしの想像上かもわからない目の前の貴方さえ酷いことばかり言う。もうやめろなんて、今更そんなこと出来ようはずもないのに。


 わたしの使命は、この人に比べたらきっと随分と手前勝手で軽いものだ。わたしが投げ出したいと思ってしまえば投げ出せてしまう。咎められることもきっと無い。誰も知らないし誰かに話すこともない、そんな使命だ。わたしが勝手に定めたわたしだけの使命。
 投げ出すことを許せないのはただ自分一人だけ。


 貴方に明日をあげたい。明日の貴方の美しい眼に映る世界が美しいものであってほしい。春も夏も秋も冬も、巡る季節を見守って、穏やかに歳を重ねて欲しい。まだ見ぬかわいい嫁をもらい、煉獄家とひとめでわかるかわいいややこを産んでもらって、子供をかわいがってほしい。きっと貴方はとてもいい父親になり、祖父となるだろう。素敵な友人に囲まれ、さつまいもの味噌汁を飲みながら亡くなってしまった遠い友人をときおり思い出して。そんな寂しい貴方にかわいい妻が傍に寄り添って、手を握ってくれると尚良い。
 ああそれでも、貴方はそんな最中で人助けと称してとんでもない事故に巻き込まれて、うっかり死んでしまうのかもしれない。もうそこまできたらどうすることも出来ないかもしれないが、己の手の届くことならなんだって貴方に差し出したい。貴方に鬼のいない世界の穏やかで安心して眠れる夜を贈りたい。みなで夜の祭りにいける一日を贈りたい。
 愛した貴方だから。愛してくれた貴方だから。明日の朝陽から貴方の意思が、貴方の思うままであることを祈っている。
 貴方に生きていてほしい。

 貴方を守る。貴方の大切なものを守る。それをわたしの、真の使命と定めている。



 「行くのか」
 「ええ」



 貴方は愛してくれたかもしれないけれど、貴方とわたしは永遠に別の場所へと別れてしまった。貴方は体を大事にして欲しいと言うわたしの意見などきかないし、わたしも貴方の言葉をもう聞くことはない。わたしは絶対にやめない。堂々巡りで決着もつかぬ。魂のありか云々ではなく、わたしたちの意思が別の方向を向き、別の場所を目指している。価値観が変わってしまった。もう二度と共には在れない。貴方から美しい宝物のような口づけを貰えることはない。しかしそんな些細なことはどうだってよかった。
 それでも、それでも、わたしは貴方を愛している。だから偶然にも与えられた永遠という時間を、わたしはわたしのために使おう。

 貴方が自分のために使えぬ時間を、わたしは己の使命のために。

 あけはなった無風の車窓から、杏寿郎の瞳の色のような世界へ向けてドボンと湖に飛び込んだ。水の中にも橙の色が差し込んでいて眩しい。まだ杏寿郎は、何かを喚いているようだった。もう貴方の声は聞こえない。何も聞こえぬ深淵がわたしを呼んでいる。わたしを包みこんだ何かの力に向かって、キラキラとしたかけらが湖に溶けて消えていった。あれはきっとわたしの大切なものだ。それでも一等大切なものだけは、この湖にも渡さない。思い出はずいぶん薄らいているものもあるが、ここの湖には渡せぬものがたくさんあるのだ。

 もう二度と、貴方に会いませんように。さようなら、杏寿郎さん。