02

「いつまで寝てんださっさと起きねぇか!」

 隠に叩き起こされた炭治郎は息を飲む。ずらりと勢揃いした柱、という、おそらく同じ鬼殺隊士たち。
 尊敬する兄弟子である錆兎が柱という階級だった気がするが、錆兎があまりにも気さくなので炭治郎には兄弟子である義勇と錆兎が柱という鬼殺隊最上級の階級である自覚はほとんどなかった。

 やいやいと周りからとんでもないことを開口一番に言われたような気がするが、禰豆子が見当たらないのが気にかかって仕方がなかった。背中に背負っている道具箱がない。妹がいない。いつも側にいるのが当たり前の妹、それも目の前の人間たちは鬼共々頸を刎ねるだとか言っている。禰豆子はどこだ。

 那田蜘蛛山では禰豆子を斬ろうとしていた蝶飾りの女性だけは話を聞こうとしてくれ、瓢箪の中の水を飲めと言ってくる。がむしゃらにそれを飲んで、連れ歩く鬼は妹であることを説明するも、周りにいる人たちに理解してもらえている様子はなかった。首に蛇を巻き付かせた不思議な青年に指をさされ暴言を吐かれたり、お館様というひとはこのことを把握しているはずなので待った方がいいのでは、という意見があがったりする。義勇は何も言わなかった。というより、何か言いたげではあるが言いづらそうな苦虫を噛み潰したような顔をしている。この場にまだ居合わせていなかった錆兎が騒ぎに慌てて駆け寄ってきて、なにがどうなっていると当たり前な疑問を口にした。炭治郎が鬼殺隊として妹が戦える旨を叫んだ時に、傷だらけの青年が姿を現す。

 青年は禰豆子の入った箱を持っている。彼は大きく見開いた三白眼の邪悪な目でこちらを見てきて、場がかなり剣呑な雰囲気になった。

「鬼殺隊として人を守るために戦えるゥ?そんなことなァ!あり得ねぇんだよバカがァ」

 青年が抜刀して箱に刀を突き刺そうとした時に、その腕をグッと押さえつけた誰かがいた。禰豆子、と叫び出しそうな炭治郎のことを、そのひとは一瞥してきた。やめろ、と言外に言われているのを瞳から悟って、息を飲む。
 女の人だ。体格はそう大きくない、普通の女の人だ。隊服の上には、大きい黒い羽織を羽織っているようだった。まとめた髪には赤い櫛が挿さっている。

「不死川さん。何をするおつもりで」
「テメェのほうこそ何のつもりだァ。テメェも隊律違反で処罰されてぇのか」
「いいえ。お館様はこの鬼のこと、竈門炭治郎のことを承知しておられますから、その手を離していただけますか。お館様の意向に反するのは、あなたの本意ではないのではないですか」

 不死川、と呼ばれた青年はギョッとした顔をし、女性を探るように見た。女性は無表情のまま青年を見つめ返している。

 お館様と呼ばれる不思議な人が来てからも、一悶着あった。炭治郎は例の傷だらけの青年に頭を押さえつけられ、読み上げられた文で錆兎と真菰、義勇と育手である鱗滝が妹のために命をかけてくれていることを知る。涙が溢れた。お館様が妹と鬼舞辻のことなど色々説明をつけているが、妹がそれでも人を襲わないことを傷だらけの青年は納得しきれない様子で、刀に手をかけた。チャキと鍔が擦れあう音がした、そのとき。

「不死川さん。代わりましょう」

 青年が己の腕に傷をつけようとした時、その刀を女性は素手で握った。黒い羽織を羽織った先程の女性だった。あまり話さないが、彼女も柱なんだろうか。そんな疑問を他所にばたばたと彼女の掌から血が流れていく。なんてことだろう。青年も目を見開いて、「オイオイ‥」と一言だけ呟いて絶句してしまったようだった。

「お館様、今からお屋敷を汚してしまうこと、お許しくださいませ。給金から畳の代金を差し引いておいてください」

 女性は道具箱を丁寧な動作で持ち上げずかずかと屋敷にあがりこみ、炭治郎を見つめた。

「竈門くん。今からわたしは、貴方の妹に許されないことをします。後ほど何をしてくださっても構いません。許して欲しいとも言いません。ただわたしが成さねばならぬ事を、今します。申し訳ありません」

 他の柱とは違う、平身低頭な丁寧さでそう言って。その人は血だらけの手のみならず、羽織を捲り上げてそこにまた刀傷をつけた。羽織に隠されていた腕は、傷だらけだと思った青年と似たり寄ったりな傷だらけさで、かなり痛ましかった。一体何が起こっているのかさっぱりわからない。
 そしてその人は、恐ろしいことに禰豆子の入った箱に自分の刀を一度突き立てた。先程はあの青年を止めてくれたのに。刀を抜く。鮮血が舞う。禰豆子、と叫んで駆け寄りたいのに、蛇を首に巻いた人が炭治郎の肺を圧迫してきて動けない。蝶の飾りの人にも静止されているようだが、知ったことではない。何が何やら分からないが、禰豆子が傷つけられている。禰豆子、禰豆子。炭治郎のことを見守っていた錆兎がたまらず禰豆子、と叫んだ時に、禰豆子は箱からのろのろと立ち上がった。女性を睨みつけている。対峙する女性はそっと口を開いた。

「禰豆子さん。貴女は、傷を負った人を目の前にしても。自分の体に傷を負って、人の血肉を喰らいたくても、人を襲わず、血を飲まない。貴女は鬼殺隊士です。人を守れる、そうですね?」

 炭治郎は縄を自力で解いて屋敷の縁側にしがみついたときに、その言葉でようやく女性の意図に気がついた。これはおそらく、鬼に対しての入隊試験で、自分たちにとっての藤襲山のようなものなのだ。禰豆子、と叫ぶと妹はハッとしたような顔をして、睨みつけていた目を顔ごと他所に向けた。そして女性はとても優しい声と匂いで、微笑んだ。
 母に似た慈愛の匂いだ。
「えらいですね。良くできました。貴女はとてもいい子です」と優しく言って、そしてそのまま禰豆子に優しく箱の中に戻るように促している。

 彼女は禰豆子を傷付けた。それは揺るがない事実で、許せないと思いたい。それでもこの人は悪い人ではない。むしろとてもいいひとなのではないだろうか。炭治郎はまたじわじわと泣きそうになった。
 また女性は、「不死川さん。伊黒さん。これで竈門禰豆子が人を襲わないこと、納得いただけましたか」とも言ったのだ。実弥と小芭内が唇を噛んでいるような様子が見て取れて、それで目が見えないらしいお館様も納得したように優しく頷いていた。炭治郎が鬼舞辻を倒すと大言壮語を口にして周りが笑った時には錆兎ですら笑いを堪えている様子だったが、あの黒羽織の女性と金髪の青年、義勇などは笑わなかった。


 隠の人に担がれがてら、お館様に珠世さんによろしく、などと聞き捨てならないことを言われて、竈門炭治郎にとっての波乱の柱合会議は幕を閉じた。

 本当にとんでもない一日だった。あの人には、あの女の人には。次に会った時になんて言えばいいのかわからない。お礼を言えばいいのか、頭突きをすればいいのか。わからないが、とにかく体を休めたい。大切な仲間にも生きて会えた。禰豆子も無事だ。あちこちが痛い。ここはもう安全だ。

 炭治郎がゆっくり目を閉じた時、もう意識はなかった。