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怪我をした義勇を置いて走った藤襲山で出逢った異形の鬼は、鱗滝の弟子をたくさん食ってきたと言って楽しそうに笑って、無数に生えた太い腕を伸ばしてきた。見知らぬ兄弟子たちではあるが、食ったときのことを詳細に語ろうとする鬼の性根には反吐が出る思いだった。尊敬する師匠が事実を知ったらどれほど悲しむだろうか。厄除けにと渡された狐の面が弾き飛ばされ転がっていき、頸を斬ってやると猛烈な怒りを込めて一心に振るった日輪刀は根本近くで折れる。他の鬼とは手応えが全く違う。頸が硬い。その瞬間絶望が襲い、生まれたその隙を見逃さなかった鬼の大きな手が錆兎の頭を鷲掴んだ。コイツは俺の頭を潰そうとしている。
口の中に血の味が広がり、俺は死ぬのだと思った。せめてこの鬼の頸だけは何としても斬って死にたい。男なら最期まで戦おうと腕に力を込めるが頭を圧迫されてうまく呼吸が使えず、視界が真っ赤に染まったそのとき、肺の中に大量の空気が流れ込んでくるのがわかった。別の誰かの気配がする。あの鬼の腕を斬って錆兎を助けた誰かがいる。落ち着かない呼吸の中で、詰まった耳に鬼の断末魔のようなものが聞こえた。そしてそのまま意識が暗転した。
錆兎は思い返してもあのときが一番近くに己の死を感じた瞬間であったと思う。鬼殺隊の一員として生き、死線を何度も潜り大勢の仲間を助けられず亡くした。十二鬼月とも相対してきた。それでもなおあの時が一番、自分はもう死ぬのだと思った瞬間だった。
意識が戻ったときには義勇がそばにおり、肩を借りて歩いた。頭から血が流れ視界はずっと薄暗かったが何とか死の七日間を終え山を降りると、助けてまわった仲間達が大勢いて感謝されたり容体を案じてもらったりした。あの時に誰も死ななかった同期達は今では半数以上が殉職してしまったが、今でも生き残っている同期の一人になまえがいる。
義勇からその少女が錆兎を助けたと聞いた時、信じられない心地だった。自分より細く小さく、真菰と背丈がそう変わらない少女。そんな少女があの鬼の強固な頸を斬ったという。感謝の言葉を口にする隙もなく、なまえは肩を貸していた義勇をはっ倒し怪我人の錆兎の襟首を掴んで持ち上げ静かに怒った。それは凪いだ水のようでいて、焼けそうなほどの強い怒りだった。錆兎は自分が強い男であることを忘れ、足のつかない体勢で呆然とした。
「お前はまだ弱い!怒りに任せて冷静な判断を下さないからあの鬼の頸が斬れなかったんだ。他の仲間を助ける余力があるならまず自分の命の心配をしろ。鬼の養分になんてなるなッ!お前が死んだら、そこの友人やお前の育手はどう思う。お前の命はもうお前だけのものじゃないッッ!!!!!」
強い鬼を背に逃げる事はできない。鬼殺隊なら、男なら。しかしあの件で義勇も錆兎も変わった。二人とも鬼に親しいものを殺され生き残ってしまった身だからこそ、きっとあのときのなまえの言葉が骨身に沁みてしまった。互いが大切な友人だったから、互いを残して絶対に死なぬという約束をした。死んでも必ず生き延びる。相手の力量が自分より上だと判断したらどれだけ格好悪かろうが応援を呼び、傷ついた仲間を担ぎ上げ夜明けまで走った。弱さを痛感したときには義勇や杏寿郎と手合わせをして、極力強い者にも指導をつけてもらった。錆兎は生きていける明日をいつも信じ、その信念を貫くことを己の男の在り方とした。
弱さを隠すより鬼に食われるより、生き延びて友との約束を守る方が余程男らしい生き様だろう。
なまえを次に見かけて声をかけたときには、あのときの怒りがなかったかのような優しい微笑みを浮かべ錆兎を見つめてきた。そしてそれ以上の感情を向けられた事はない。
継子である獪岳に対しては別の笑顔を向けていたので恐らく彼女にも色んな感情があるのだろうが、錆兎はなまえに信頼する仲間だと思われていると感じた事はなかった。
痛ましいほどの傷を負い、錆兎より先に柱に登り詰めたなまえの強さは手合わせをすればするほど分かった。錆兎がそうであったから、その強さがひたむきに努力した上で手に入れたものだと分かっていた。そしていつも着ている喪服の羽織が、自分たちと同じように大切な者を喪って生きてきたことを証明していた。
今の錆兎だからわかることがある。錆兎は藤襲山のとき、あの鬼に出会う前から生き急いでいた。みなを助けなければならないと焦っていた。強くなる事は弱きものを助ける事で、生き延びることが目的ではなかった。藤襲山での一番の任務は生き延びることであることを忘れていた。自分が死んだ時の他者への配慮などなかった。義勇がどう思うか考えたことなどなかった。真に男らしくはなかった。
他者を守り散ることも美しい生き様かもしれないが、今はそうは思わない。
勿論一般人を守り後輩を守ることは大切なことだ。だが、自分の命を守ることもきっととても大切なことだ。
あのときの弱い錆兎の残像に、何故かなまえが重なる。静かにあんな説教をかましてきた女とは思えなかった。
だから見かけるといつもつい声をかけた。あのときの自分を鼓舞するように、なまえが明日も生きられるように。なまえが仲間を信じられるように。そんな仲間の痛覚がないことに気づかなかった身だが、どうか今、この恩人に言わせて欲しい。
ぐるぐると幾重にも包帯が巻き付いている体は錆兎よりずっと小さい。俵抱きしていたその体を病室のベッドに座らせる。
「お前が死んだら、友人やお前の育手はどう思う。お前の命はもうお前だけのものじゃない」
あの時の錆兎と義勇を変えた言葉を、そっくりそのまま向けてやりたいと思った。
「傷ついている体を放置するのは強者のすることではない。隊士の見本である柱としても、到底許容できない。お前には休息が必要だろう」
「姉ちゃん!痛い時は痛いって、辛いって言わなきゃ駄目なんだ。頼むから言ってよ!怪我が痛いって‥」
錆兎も、後を追ってきた炭治郎にも、善逸にも伊之助にもアオイにもわかった。なまえはただ苦笑した。錆兎に言葉を向けられようが善逸に泣かれようが、なまえを気遣うその心は届かない。なまえはもう既に何処ともわからぬ自分の行く道を決めてしまっていた。
鬼殺隊の全員が毎日のように命をかけて闘っている。明日命を散らすかもしれないという可能性を感じながら生きている。それでもなお、錆兎は義勇に生きていて欲しいし、もちろんなまえにも生きていて欲しいと思うのだ。
「自分の体を大切にして欲しい。何故そんなことがわからない!その体が無ければ鬼とも闘えないんだぞ!」
「大切にしています。わたしは自分のことがかわいいですから」
「それが大切にしている扱い方か!」
「そうですよ。でも自分の体を大切にしつつ、わたしは欲しいものがたくさんあるので、そちらを優先してしまうんです」
我が儘なので、すみません。そう言って笑った彼女の顔はきっと初めて向けられた本心からの笑顔だったが、錆兎は藤襲山で頭を潰されかけた時のように息苦しくなった。それでもきっとここで諦めたら、目の前の女は明日にでも本当に死ぬのではないか。そんな気がしてならなかった。
あのとき俺に怒ったお前は、一体どこに消えてしまったんだ。
「俺、自分の怪我をすぐに治します!そうしたらみょうじさんに稽古をつけてほしいです!約束しましたよね?!みょうじさんも怪我を治して、万全の状態での稽古をお願いします!」
炭治郎がそう叫んだ。ぎゅっと睨みつけるようになまえを見ている。
それは明日に繋がる約束だった。錆兎と義勇がいつかしたものと同じだった。
「俺ともまた手合わせして欲しい。煉獄もそうしたいと言っていたし、義勇も連れてくる。お前には上弦を倒した実績ある強さがある。俺たちはもっと強くならなければならないんだ」
「‥ええ、そうですね。わたしももっと強くならなければなりません。鬼舞辻を倒したいですから。是非お願いしたいです。宜しくお願いします」
「ね、姉ちゃん!俺もだよ!俺にも稽古つけてくれる?!?!」
「善逸はいつも訓練も嫌がっていると聞いたけど?本当にしたいなら炭治郎さんと一緒に稽古しましょうか。獪岳も連れてくるから」
「俺もだァーッ!俺は山の王、嘴平伊之助!てめえは強い!だが絶対勝っててめぇを子分にしてやる!」
今度の約束は届いた。なまえは眩しそうな顔をしているが、それでもうんと頷いている。まだ彼女は生きている。俺たちが必ず、なまえを生かそう。その為にもやはりどこまでも強くなる。
苦しくとも辛くとも友と共に生き延びる。仲間と生きる。人と生きる。それが錆兎が決めた生き様だからだ。
