Drawn to you …?_2



 翌日、宿舎のアラームで目を覚ましたあきは気怠い身体を起こして顔を洗う。すっきりした顔で窓を開けると、上方でふわふわと浮かんでいた飛行猫が木に激突してボールのように跳ねた。飛行猫は全く痛がるそぶりも見せず未だ揺蕩っている。
(…骨格とかあるんだろうか、あれ。)
 あまりにも穏やかに訪れた朝になんだか拍子抜けする。あきがこの街に訪れてからもうひと月近く経っていた。能力が発覚した当初は実験だなんだとあちらこちらに引っ張り回されていたが、今ではその残り香がちらほらとあるだけだ。もとの世界に戻る予兆もない。といっても、こちらに飛ばされた日にも予兆などなかったのだから、そんなものが当てになる訳もないのだが。
 服を着替え、顔を洗っていると部屋のドアを軽くノックする音が聞こえた。あきは慌ててタオルで顔を拭きドアを開ける。そこにはあきがこの街に訪れてから初めて出会った、術士のアンが立っていた。
「スコットさん…!」
「もうアンでいいわ。それよりも貴方、ここを出るんですって?」
 アンは弾んだ声であきの両肩を掴む。次元を越えて街に訪れたあきは魔術オタクのアンにとって堪らなく興味を唆る存在なのか、どうやら余程気に入っているらしかった。
「わ、ご存じだったんです?」
「ええ、さっき聞いたの! 話してくれてもよかったじゃない!」
「あはは、機会がなかったもので…」
 出会った日と同じようにマシンガンのごとく話すアンに、あきはどこか懐かしさを感じる。それほどまでにこの世界に訪れてからのひと月は色濃かったのだ。

 あきはアンに腕をひかれ街に出ていた。
 アン曰く「出所祝い」らしい。出所もなにも、逮捕されていたわけではないのだが。突拍子もない行動は彼女の性格なのだろう、宿舎と署への往復を繰り返していたあきには願ってもない出来事だった。HLに訪れてから観光できる機会などなく、窓の外を眺めることしかできなかったのだ。目の前に広がる街並みは何度も夢に見た風景で、じわりと目に涙の膜が張った。
 その日あきは一日祝いと称して街中を連れ回された。支給品の服しかなかったあきはプレゼントだと言うアンに全身を次々と飾り立てられ、署の食事は不味いだろうとケミカルな色合いをしたケーキやピザを奢られ(実際のところアンが食べたかっただけなのだろう)た。
 楽しそうなアンに対してあきは非常に疲れ切っていた_わけではなく、彼女もまた負けず劣らずはしゃいでいた。最初はアンからのプレゼントに申し訳ない気持ちも持っていたようだが次第に好意を無碍にする方が悪いと判断したらしく、衣服やカラフルなケーキに思う存分心を躍らせていた。
 さて、次は何処に行こうかと店の外へ足を踏み出すとサイレンの音が聞こえた。この街に来てからその音を聞かない日はなく、最早HLの住民にとっては日常の中のBGMに過ぎないだろう。パトカーが騒ぎの中心を取り囲み、何が起こっているのかもわからず銃声と轟音の響く方向へと目をやる。

ーーーーーートレンチコートが、見えた。

 人が恋を自覚する瞬間は多種多様である。運命的な一目惚れや然るべくして恋に落ちる人もいれば、他者から見ればそんなことで?と疑問にすら思う程に些細なことで芯の髄まで焼かれる恋慕に脳を満たされることもある。そしてそれは、その瞬間が訪れるまで、他人は勿論自分にすらわからない。
 春秋あきにとってはそれが今この瞬間だった。
 並ぶポリスーツの中で凛と背を伸ばすその背中は、その場にいる誰より小さい筈なのに。あきの脳裏にこの街に訪れた日の光景が駆け巡る。乱暴に腕を引かれた先でこちらを見つめていた力強い瞳。頬に押し当てられた皺の寄ったのハンカチ。現場でしゃがみ込んでいただけの、義理も何もない小娘の言葉に耳を傾けてくれた彼の表情。
 その行動に特別な意味が無いことなど、少女は出会う前から知っている。彼がそう生きるのは、彼の抱く志からなのだと。それを知って尚胸を打つこの感覚は、紛れもなく恋であった。
ーーーこちらを見て欲しい。
 恋慕の情を自覚したのは、彼女にとっては過ぎた願望が頭に浮かんだからだ。前だけをただ真っ直ぐに見据えるその瞳がこちらを見てくれたなら、それはどれだけ幸福なことか。こちらを見ることがないと分かりきっている。だからこそ、手を伸ばしたいと思ってしまった。
「…アキ?」
 背後からアンの不思議そうな声が聞こえ、慌てて振り向く。熱を持った顔を見られるのはどこか恥ずかしく、何でもないと嘘をついた。
 やかましい心臓の音は無視して笑った。彼にこの気持ちを伝える気などない。彼が子供の戯言にわざわざ付き合うような男ではないことくらいわかりきっている。
 その筈、だった。



「好きです」

 ぽかん、と口を開け驚いた表情を浮かべているのはあきがつい先日恋心を向けていることに気づいた男、ダニエル・ロウだ。伝える気はないと決意したのはどこの誰であったか。そうは言ってもあき自身、自分がその言葉を告げたことに驚いていた。
 時間は数分前に遡る。身元の引き渡し処理が終わり、あとはあきが署を出るだけとなった日。世話になった職員らに礼を述べていれば、出口にはあきを一番最初に保護したダニエルが立っていた。凡そ見送りだろうと跳ねた心臓を押さえつけてダニエルの元へ駆ける。
「あの、本当にお世話になりました…!」
「仕事だ、気にすんな」
 出会ったあの日と同じことを言うダニエルについ笑みが漏れてしまう。ダニエルはわずかに表情を緩めた後、胸ポケットから煙草と、一枚のメモを取り出した。彼は煙草を一本取り出し口に咥えるとメモ用紙をあきに差し出した。
「俺のプライベートナンバーだ。漏らすなよ」
「へ、」
 目を丸くしたあきが二つ折りになっていた紙を開くと、そこには二つの電話番号が書かれていた。恐らく仕事用の電話番号と、私用のもの。なんで、と考えるよりも先に口をついた言葉に、ダニエルは子供を宥めるような、柔らかな声色で告げた。
「お前が警察を頼りたくねえのはわかってる。だが、何故かは知らねえが俺になら頼れるっつうのもわかる。…何かありゃどっちでもいい、連絡寄越せ」
 あきがこの世界に訪れて初めて手を伸ばしたのは彼だ。彼ならば、きっと大丈夫だと思った。彼にたどり着けないかもしれないという不安はあれど、彼を信じるということに疑いの一つも芽生えなかった。思えば彼女は最初からーー次元を超えるずっと前から、彼に惹かれていた。
 それを自覚した結果が、その突拍子もない一言だ。
 零れ落ちた言葉は口に戻すことも、なかったことにすることも出来ない。否、彼女にとっては“したくない”のかもしれない。ダニエルが言葉に迷っているのをいいことにあきは「それでは」と頭を下げ、慌ててその場から駆け出した。
 脳内の自分が喧しい。何故言った隠すつもりではなかったのかいや言うにしてもそのタイミングはないだろう彼の純粋な厚意を無碍にしたかもしれない次顔を合わせたらどう言い訳をするんだどうせ隠し切れまいそれならば、ええい喧しい。色んな感情が脳内をすし詰めのごとくひしめき合いぎちぎちと音を立ている。右へ左へとぐちゃぐちゃに走ったおかげで、後ろを振り返るも警察署は見えない。大して走ったわけでもないのに額を伝う汗を手の甲で雑に拭う。手の甲が汗で濡れる感覚に握りしめていたメモ用紙をはっと思い出し、インクが滲んでしまってはいけないとポケットへしまった。

「……あのー、アキさんっスよね?」
「はい!?」
 突然名前を呼ばれたことに驚いたのかあきは大袈裟に身体を跳ねさせて後ろを振り向いた。
 困惑した様な表情であきに声を掛けたのは丁度今から合流するところだったライブラの構成員、レオナルド・ウォッチだ。歳が近いからだろう、迎えに寄越された少年は軽く息を切らしていた。
「ま、待ち合わせの時間過ぎてました!?」
 息を切らしてまで自身に声をかけた理由が見当たらず、慌てて時間を確認しようと時計を探せばレオナルドはぶんぶんと手を振った。
「違います違います! あー、待ち合わせ場所と真逆の方向に走ってく姿が見えて気になったというか…」
 困ったように笑うレオナルドにあきは慌てて頭を下げる。伝えるつもりのない告白をして逃げて来たなど、ほぼ初対面の彼には流石に言えないだろう。
 レオナルドは軽く咳払いをするとにこやかに笑ってあきに右手を差し出した。
「改めて、レオナルド・ウォッチです。レオって呼んでください」
「春秋あきです。是非こちらこそ!」
 差し出されたその手を握る。レオナルドにはあきが一瞬強張ったような感覚がしたが、すぐにそれは誤魔化されるようにぶんぶんと振られた。お互いがその手を解けば、レオナルドは「こっちです」と後方を指さした。事務所がそちらにあるのだろう。
「…この街…、って、実際のところどうなんです?」
足を進めながら、ぽつり、とあきが言葉を零した。
「どう、って?」
「…いや、……、私が見ていた風景は、いつも事件が起こっていたから」
「あはは、思ったより穏やかで拍子抜けしました?」
 レオナルドはその問いに慣れているような素振りで軽く笑った。あきはレオナルドの横顔を軽く見上げながらまあ…、と軽く頷く。紙面越しでは小さく映る彼も、一五〇センチ半ばのあきからして見れば顔は見上げられる位置にある。
「まあ、色々説明することもありますけど、割と普通の人も住んでますよ。危険な場所に好んでいかなきゃ、"基本は"普通に過ごせます」
「…基本は」
 不穏に強調された言葉をつい復唱してしまう。当然と言えば当然だ。千年の覇権を静かに狙い合う場所…と言えば聞こえはいいが、実際は人の手に負えない力を持った者達が挙ってその力を行使している都市だと思えば平穏という言葉の程遠さがわかる。この街で過ごし続ければそれも"普通"になるのだろうが。
「こっちです」
 路地に足を踏み入れると、表通りより若干涼しい空気が流れる。周辺の地図すら怪しいのに、こんな裏通りを覚えていられるだろうか。辿り着いた先は見慣れたあの扉ではなく、店の裏口によく似た簡素な扉だった。これもこの街にある無数の"扉"のひとつなのだろう。
 扉が開き中に足を踏み入れると、室内は綺麗なドアが四方を囲む小さな部屋だった。高級感を漂わせるそれが構成員を運ぶエレベーターなのだという事をあきは知っている。
(…そういえば、仕組みってどうなってたんだっけ)
 いくらあきがこの世界を知っているとは言え、全てを覚えているわけではない。忘れてしまっていることも、見落としていることもある。こんな不完全な知識で彼らの役に立てるのだろうかと、ふと脳に過った不安を誤魔化すように首を振った。
 音も無く術式が駆動し、エレベーター特有の浮遊感が身体に伝う。二人を乗せた箱が動きを止めると、レオナルドはドアノブに手を掛け、ゆっくりとその扉を開く。
 ドアを開いた先には、あきにとっては何よりも見慣れた、それでいて何よりも新鮮な景色が広がっていた。
 白と黒のタイルの先には手入れが行き届いているのだろう、鮮やかな緑。
 そして、デスクの向こうには、ーーーーはっきりとした、赤。

「ようこそ、ライブラへ。」