1話 人形作家の恋




 着信を知らせるバイブレーションで、僕は現実に引き戻された。
 いつの間にか、部屋が暗い。すっかり夜に染め上げられた部屋の中で、手元を照らす電気スタンドだけが煌々と光っていた。
 栄養素と水分が足りていない脳みそで、手元を見る。
 僕の手にあるのは、石膏粘土の塊と、目の細かい紙やすり。石膏粘土は人の脚に似た形をしている。
 ──もうちょっと、磨いた方が良さそうだな。
 そんなことを思いつつ、それらを作業台の上に置いた。
 石膏の粉に塗れた手をタオルで拭って、机の片隅に放置されているスマートフォンに手を伸ばす。
 そして、着信画面に映る名前を見て──息を飲んだ。
 水森縁。
 僕にとって、その名前は二つの側面を持つ。
 ひとつ、人形作家である僕のお得意様。
 ふたつ、僕が片思いをしている相手。
 何度か深く息をして、呼吸を整えた。水森さんからの連絡はいつも突然で、その度僕はこうして緊張を押し殺して電話に出る羽目になる。
 ──冷静に。冷静にだぞ。声を踊らせるな。あくまで、冷静に。
「……はい、青羽です」
『青羽さん、こんばんは。水森です。今少しよろしいですか?』
 滑らかなテノールボイスが、僕の鼓膜を震わせる。その声を聴いただけで、焦げ付くような想いが腹の底で疼いた。今にも腹を食い破って零れ落ちそうな想いを隠して、何事もなかったかのように返事をする。
「もちろんです、どうかしましたか?」
『もしよろしければなんですが……今度、うちに来ていただけませんか?』
「えっ、それまたどうして」
『久々に青羽さんに会いたいなぁと思いまして』
 晴天の霹靂、という言葉が脳裏をかすめた。まさかのお誘いだ。……といっても、期待するだけ無駄、というのはよくわかっている。もう三年の付き合いになるけれど、水森縁という男は、まるでデートに誘うみたいにアポを取る。それでいて、会ってみれば当たり前のように仕事の話をしだす思わせぶりな人なのだ。
 ……とはいえ、それが仕事の話だったとしても、好きな人に「会いたい」と言われて喜ばない男などいないわけで。
「ぜ、ぜひ! 作品の様子も見たいですし」
『よかった。では……来週とかいかがですか?』
 何事もなく日程を調整して電話を切り、手帳に予定を書き込んだ。
 ふう、と息を吐いて緊張を緩めつつ、手帳に挟まれている一枚の写真を見る。
 ふたりの男が写っている写真だった。
 ひとりは、細身ながらもしっかりと鍛えられた身体をした、美しい男性──僕の想い人である水森縁。隣に並ぶのは、がりがりの体をオーバーサイズの服で誤魔化した男、僕。
 三年前、初めて会った時に撮った記念写真だ。僕が唯一持っている、水森さんの写真。
 今も、ありありと思い出せる。水森さんと初めて会った、あの日のこと。
 たくさんの人と創作物がひしめく展示場。ハンドメイド作品を販売するイベントで、僕と水森さんは出会った。
 会場内で販売されているものはアクセサリーやイラスト、食器なんかがほとんどで、僕の作品──球体関節人形は、はっきり言って、異色だった。
 その上、バイトを掛け持ちしてなんとか食い繋いでいる身ではブースの装飾にかける金なんかなくて、結局ブースには長机が二台並んでいるだけ。その上に数体の球体関節人形が並んでいる様は、質素を通り越してもはや殺風景だった。
 そんなブースに人が寄り付くはずもない。閑古鳥が鳴くブースの端っこにパイプ椅子を置いて、僕はポツンと座っていた。
 ──知名度もなければ、作品を引き立てる展示もない。そりゃあスルーするに決まってるよな。
 当然といえば当然の結果だ、と、諦めに近い感想を抱きつつ、目を伏せる。
 その時突然、僕のブースの前で足音がひとつ、止まった。
 目的もなく歩いてきて偶然止まった、というよりは、真っ直ぐこのブースに歩いてきたように感じる。自惚れ、かもしれないけれど。
 ふと、顔を上げる。立ち止まった人物が、どんな人なのか確認しようとしてのことだった。
「────!」
 彼を見た瞬間、雷に打たれたような衝撃が走る。
 まず目に入ったのは、琥珀色をした瞳だった。
 イベントホールの人工的な灯りを受けて輝く瞳は、今までにみたどんなドールアイよりも美しい。
 そうだ、確か、人形のようだ、と思ったのだ。
 些細な動きに合わせてさらりと流れる亜麻色の髪。白磁のような、一点のくすみもない肌。彫りが深いハーフ風の顔立ち。まるで等身大の人形が動き出したかのようだ。
 彼の、形のいい唇が動いた。こちらに声を投げかけているようだった。いつの間にか、僕と彼の視線はばっちり交わっている。
「──青羽、拓人さん、ですよね」
 ベルベットのように滑らかな、テノールボイスが響いた。その声音がどこか緊張したような響きを帯びているのに気づいて、意外に思ったことを覚えている。
「はい」
 真っ白になった思考では、頷くだけで精一杯だった。
 だって、こんなに美しい瞳が、熱っぽい視線で僕を見ている。
 突如、彼が僕の目の前まで歩み寄ってきた。
 一体何を言われるんだと肩をこわばらせた刹那、彼が突如、跪いた。
 今さっきまで見上げていた瞳が、眼下にある。
 一層近づいた彼の美貌に気を取られて、手を握られたことに気付くのに遅れた。
「初めまして。私は水森縁と申します」
「……あ、青羽、拓人です」
 裏返った声で、僕も名乗り返した。先ほど相手が僕の名前を発していたにもかかわらず、だ。
 しかし、彼──水森さんはそれを笑うような真似はしなかった。「存じてます」と言って、薄く微笑み、言葉を続ける。
「──ずっと、貴方の作品のファンでした。お会いできて、光栄です」
 そう言われてみれば、水森縁という名前には覚えがあった。SNSを始めるよりもずっと前、ブログに人形の写真を投稿していた頃から応援してくれていた人。メッセージでもやりとりをしたことがあるような仲だったけれど、まさか、こんなにも綺麗な人だったなんて。
 ──麗しい微笑みを湛えて僕の手を握る水森さんの姿が、今も忘れられないままでいる。
 そう、それは紛れもなく一目惚れだった。
 水森縁という人は、この数分にも満たない時間で、僕を恋の沼に叩き落として行ったのだ。
 ──あの日、水森さんに恋をしてから、早いもので三年が経つ。
 水森さんの姿を目にするたび、言葉を交わすたび、心に触れるたび。想いは募るばかりだ。……それでいて、想いを告げることも、仄めかすこともできないでいるのだから救えない。
 僕は手帳を閉じて、机の隅に置いた。再び紙やすりを手に取り、先ほどまで磨いていた人形の脚を磨き始める。
 ──貴方と初めて会った時の衝撃が、今も僕の心を焦がしているのです。
 ──そう伝えたら、水森さんはどんな顔をするだろうか。
 そんなことを思いつつ、ふう、と息を吹きかけて紙やすりから石膏の粉を払った。




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