2話 白昼夢のような




 マンションのエレベーターを降りれば、突き当たりのドアの前に男性が立っているのが見えた。どうやら、エントランスの自動ドアを開けてもらった時から玄関で待っていてくれたらしい。
 真冬だっていうのに、その姿を見るだけで頬が熱くなるんだから、重症だ。
 小さく会釈をしてから、少し早足に彼のもとへ向かう。
「お久しぶりです、青羽さん。お元気でしたか?」
 そう言って笑う彼は、ひどく美しい。
 あの写真を撮ってから三年の月日が経つけれど、その美貌が翳ることはない。むしろ歳を経ることで魅力が増しているようにすら感じる……というのは惚れた欲目というやつだろうか。
「ぼちぼちです。水森さんはどうですか、最近」
「日々豊かですよ。青羽さんのおかげです」
「いや、そんな」
「謙遜しないで。貴方の作品のおかげで日々が豊かなのは、本当のことなんですから。……ああ、寒いですよね、中へどうぞ」
 お邪魔します、と言って足を踏み入れたリビングには、大きな飾り棚が置かれている。
 その中に飾られているのは、僕が作った人形たち。
 白磁の肌、宝石のように煌めく瞳、艶やかに光るリップ。半分獣の姿をしていたり、羽が生えていたりとシルエットはそれぞれ違うけど、どれも手間と時間をかけて完成させた僕の作品だ。
 初めて会った日、僕は水森さんからフルオーダーメイドの人形作りを承った。それ以来、彼は何かにつけて僕に仕事を任せてくれる。人形のメンテナンス、化粧直し、衣装の新調、そして新たな人形のオーダーメイド。この三年間で水森さんからの仕事を手がけていなかった時期などない、と言い切れるほどだ。
 ……今思い返せば、僕が金銭的な問題で人形作りをやめようと考えた時期があったせいかもしれない。
 僕が人形を作っていられるのは、ひとえに水森さんのお陰だ。
 依頼をくれるから、「ファン」と名乗って応援してくれるから、というのも、もちろんある。けれどそれ以上に、もっと根本的なところで僕は水森さんに頼りきっている。
 水森さんは、僕にとって、いわば呼び水だ。
 彼を想うだけで、インスピレーションが泉のように湧き出てくる。
 彼に認めてもらいたくて、その視界に映っていたくて、自然と手が動くのだ。
 ──そう。それは恋という名の、どうしようもない熱量。
 ──報われないエネルギーがインスピレーションに形を変えて、僕を突き動かしているのだ。
 事実、水森さんに恋をしてから固定ファンも増えたし、作品のクオリティも上がっている。いわば、僕が人形作家を続けられているのは水森さんのおかげなのだ。
 水森さんに気づかれないように、ふう、と息を吐いた。
 ──いけない。ちゃんと仕事を全うしないと。
 人形のひとつひとつを目視して、傷がないか、化粧が落ちていないかを確認する。水森さんが人形を手荒に扱うことはないだろうけど、物体である以上、人形は劣化する。
 そこで、ふと。以前見た時とは人形の並び順が変わっていることに気づいた。一番視界に入りやすい位置のスペースが空いている。その幅、丁度人形一体分。
 水森さんの方に視線を投げる。丁度ダイニングキッチンからお盆を持って出てきた水森さんと目があった。
「……もしかして、今日呼ばれたのは」
「ええ、そうです。もう一体人形を作っていただきたくて」
「え、本当ですか」
「もちろん」
「ありがとうございます。ええと……次は、どんな?」
「人魚姫を、と思いまして」
「人魚姫、ですか」
「ええ。いつも通り造形はお任せしますので、ラフと見積もりをいただきたいです」
 ダイニングテーブルに、ティーカップとポット、ケーキが乗った皿を置きつつ、水森さんが言う。
 僕は鞄からクロッキー帳とシャープペンシルを取り出して、テーブルについた。行儀が悪いのは承知の上だが、この人が欲しているものを残らず書き留めて、作品に反映したい。
「人魚姫……というと、人魚の姿と人間の姿とありますが、どちらをイメージされてますか?」
「どちらも捨てがたいところですが……どちらかといえば人間の姿ですかね。青羽さんの作る脚のライン、好きなんです」
「ありがとう、ございます」
 脚や体のラインは格別のこだわりを持って作っている。それ故に褒められることが少なくない箇所だけど、水森さんに好きと言われると余計に嬉しくなってしまう。
 ふふ、と微かな笑い声がして、ふと視線を上げれば、微笑を湛えた水森さんと目が合う。照れ隠しがわりに咳払いをして、真面目ぶった声でヒアリングを続ける。
「……サイズはいつも通り六十センチですか?」
「はい。ドレスもセットでお願いします」
「もちろんです。……人魚姫か。せっかくなら海の素材使いたいですね、螺鈿とか、真珠とか」
「へぇ、螺鈿細工までやられるんですか?」
「体験程度に触ったことがあるくらいですけど……いつか挑戦してみたいとは思っていました」
「それなら是非、この機会に」
「検討してみます」
 ──螺鈿で鱗模様付けてマーメイドドレスで隠すとかいいな。
 ──ドールアイに黒真珠が使えないかな、それも試してみよう。
 そんな思いつきを、絵と言葉を交えてラフに落とし込む。ドレスの上からは人にしか見えないように、異形っぽさは最小限で止めて、その分体の造形に時間をかけよう。
「……青羽さんのラフは、本当にラフですよね」
「……それはどういう?」
「いえ、他の人形作家さんだと3Dで作った図面をいただくこともあるので……私はどちらでも構わないのですが、青羽さんの場合は……このラフからあんな素晴らしい人形ができているのだと思うと、驚きます」
「あー……3Dプリンターで作ってる人とかはそうみたいですね。僕はもう、本当に手で作っているので……」
 勿論設計図も作るけど、結局は指先の感覚頼りだ。そういう意味では、他の作家よりラフに作っている、といえるかもしれない。
「ご自身の経験を頼りに作っているんですね」
「そんな感じです。……あの、いつも、わかりづらいラフばかりですみません」
「いいんですよ。結局ラフはラフですし……貴方の指先に、間違いがあったことなどありませんから」
 自らのティーカップを握った手を、感慨深く見つめた。やすりと研磨剤ですり減った、指紋のあまりない指だ。褒められたことは嬉しいけれど、「間違いなどない」とまで言われると、何故かもやもやとする。
 ぼんやりとした気持ちのまま傾けかけたカップから、まだ熱い紅茶がこぼれ落ちた。口がそれを受け止め損なって、僕の顎を、襟口を、胸元を、紅茶色に染めていく。
「熱ッ……す、すみません!」
 ティーカップを落とさなかっただけ随分マシだけど、それを差し引いても惨事だ。
 水森さんは「今氷を出しますね」と言ってダイニングキッチンへ向かい、十秒もしないうちにタオルで包まれた保冷剤を持って戻ってきた。
「大丈夫、ですか?」
「あ、はい。この服、意外と厚いので口元だけです」
 保冷剤を受け取って、口元に当てる。肌に被害があったのは口元だけだ。
「それならよかった。服……は、私のものでサイズ大丈夫ですよね」
「いや、別にこのままでも、」
「紅茶の染みって意外と目立ちますから」
 そう言って背中を押され、有無を言わさず洗面所に押し込められる。差し出されたのはハイネックのニットだった。
 たまに強引なところがあるよな……などと思いつつ手触りの良いニットに袖を通せば、水森さんと同じ香りがした。心臓がどきりと高鳴る。
 ──抱き締められてるみたいだ、なんて。
 ──流石にちょっと、気持ち悪いな。
 頭をぶんぶん振って、雑念を振り払う。好意でここまでしてくれている相手にこんな劣情を抱いてどうする。本当に、僕という奴は。
「……ああ、もう」
 頬をぱしっと叩いて、自己嫌悪を追い出した。
 ──今日のところは誠心誠意お礼を言って、服は後日クリーニングして返そう。
 今後の対応に気を向けつつ、みっともない姿になっていないか鏡を確認しようと洗面台を見た、その時だった。
「…………ん?」
 僕はふと、それに気づいた。……いや、気づいてしまった、というべきだろうか。
 歯ブラシが、プラスチック製のコップの中に二本、入っている。
 水森さんは一人暮らしだったはずだ。以前は「独身貴族なんですよ」なんて笑っていたけど……。
 そして、僕は決定的なものを見てしまう。コップの横に置かれている、直方体。金色のボディに細やかな装飾が施された、それは。
「──口紅?」
 そう、そこに置いてあったのは。コスメにそこまで関心のない僕でも知っているような有名ブランドの口紅だった。
 それを、見た瞬間。心にひびが入った、ような心地がした。
 口紅? 誰の? 少なくとも、水森さんが塗っているのは見たことがない。では、誰か別の人の──……恋人、の?
 頭がさあっと真っ白になった。
 水森さんに、恋人がいる?
 ただそれだけのことで何も考えられなくなる。
 道理に反する感情なのはわかっている。
 だって僕は、水森さんの恋人でもなんでもない。
 僕はただの作家であり。水森さんはただのお得意様だ。
 ──僕が、好意を伝えたら、何かが変わっただろうか。
 ──いいや、きっと、何も変わらない。
 ただただ報われない想いが、報われなかった想いへと変わるだけ。
 それでも……たった一言、想いを伝えることができていれば。こんな、全てが真っ白になるような感覚を抱かずに済んだかもしれない。
 そんな後悔にずぶずぶと身を沈めつつ、何事もなかったかのように洗面所を出た。
 ……この日の、ここから先のことは、よく覚えていない。
 ただ水森さんに頭を下げてお暇し、白昼夢の中を歩くようにして自宅兼アトリエまで帰り着いた。
 ソファベッドに倒れて、胎児のように丸くなれば、水森さんの匂いが香る。想い人の匂いに包まれたまま、呆然と空白の時間を過ごしていた。




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