8話 その手さえ




 どろりとした眠りから意識が浮上したのは、深夜二時のことだった。
 カーテンの隙間からは月の光が差し込んでいる。
 隣で眠っている水森さんを起こさないように、僕はベッドから身を起こした。
 体は重く、火照っている。体の奥底に、水森さんの体温が残っているような気がするほどだった。
 そっと布団から抜け出して、作業台の前に座る。
 水森さんの体温でのぼせあがった僕の指先が求めたのは、石膏粘土の冷たさだった。
 粘土、スパチュラ、発泡スチロール、水森さんに渡す予定だったラフ画。それらをいつも通りの配置に並べれば、自然と指が動き出す。
 石膏粘土をこね、人形の頭の形をした発泡スチロールを芯にして人形の頭を整形していく。いつも作る人形よりも大人びた顔つきを意識する。すっと通った鼻筋と、柔らかさを感じる唇。耳は片側を人の耳に、もう片方はヒレに似た形状に……。
 ──ああ、そうだ。
 ──忘れていたのは、この感覚だ。
 手が勝手に動いて、思考さえも置き去りにしていく。
 周りなんて見えなくなって、ただただ理想の人形の姿を掴むために手だけを動かし続ける。
 そうして時間も忘れて作業をして──ふと我に帰った時、手元の粘土は理想的な人形の形をしていた。
 あとの工程は粘土を乾燥させてから、という状態になった人形の頭を、作業台にそっと置いた。
「──お疲れ様」
 そんな声が、背後から聞こえて、驚いた。
 ちょっと大袈裟なくらいに肩を震わせてしまったのを恥じつつ、ゆっくりと振り返る。ベッドに腰かけた水森さんの姿が目に入る。
 作業台の上の置き時計に目をやれば、午前七時を示している。ああ、わざわざ声をかけないまま放っておいてくれたのだ、と気付いて申し訳なくなる。
「……すみません、水森さん。集中、してしまって」
「いいんですよ。……あの、見てもいいですか」
「いいですけど……まだ作りかけですよ」
「青羽さん、作業中の写真をあまり見せてくださらないので」
「う……集中すると撮り忘れてしまうんですよね……」
「見ててそんな気がしました。私が横から覗き込んでたのにも全然気付かったし」
「え」
 どうやら水森さんのことをガン無視して作業してたらしい、と気付いて申し訳なくなる。
 とはいえ、反省したところでこの集中癖は治るものではないのだけれど。
「──でも、よかった」
「え?」
「貴方が、作れないことに苦しんでいたようだったから。……それが解消されたなら、よかったと思って」
「……もし僕が作れないままでいたら、水森さんは僕のことを、見限りましたか」
「まさか。言ったでしょう、『ひとりの人間として愛したい』と」
「人形作家じゃ、なくても?」
「もちろん」
 水森さんはソファベッドから立って、こちらへと歩んでくる。作業台の傍までくると、そっと床に片膝をついて僕の石膏に塗れた手に触れた。
「何度でも言いますよ。……私は、貴方という存在そのものと繋がっていたい」
 昨夜は混乱のままに飲み込んだその言葉が、ようやく体に染み込んできたようだった。
 目頭が熱くなって、視界が滲む。溢れた涙は僕の頬を伝って、顎から水森さんの手に落ちた。
 きっと僕は、人形を作り続けるだろうけど。
 たとえ僕が作れなくなったとして、それでもそばにいてくれる人がいるというのなら、もうなにも恐れることはない。
 水森さんの手を握り返して、「愛しています」と囁いた。
 ──この手の温かささえあれば、どこにだって歩んでいける。
 この瞬間、確かにそう、思ったのだった。

〈了〉





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