7話 溶け合う




 自宅兼アトリエは、たかだか一晩帰っていないだけなのにひどく空気が澱んでいた。
「……埃っぽくてすみません。空気、入れ替えます」
 部屋にある唯一の窓を開ければ、冷たい風が部屋の中を吹き抜ける。
 ボロアパートの一室に水森さんを通すのは気が引けた。けれど、返さなければならないものもあったし──なにより、水森さんの「話」を冷静に聞ける気がしなかったから、恥を忍んでこの狭い部屋に彼を招いた。
「──ここが、青羽さんのアトリエ」
 水森さんはそう呟くと、部屋をぐるりと見渡す。
 ──なんか、恥ずかしいな。
 僕は今まで、この部屋に人を招いたことがない。入ったことがあるのはせいぜい、管理人さんくらいだろうか。
 両親ですら足を踏み入れたことのない部屋に最初に招くのが、まさか水森さんだとは。
 シングルベッドと、散らかった作業台。作品を保管するための飾り棚。人形作家である自分が生きるのに必要な最低限だけを揃えた部屋は、他人が立ち入ることを想定していない。
「なんか、そうじっくり見られると恥ずかしいです」
 壁に貼り付けたラフ画を一枚一枚見つめている水森さんに声をかける。
「……あ、すみません、つい。感激してしまって」
「感激って……そんな大したものはないですよ」
「私の愛する人形の生まれ故郷ですから」
「そういうものですか」
「そういうものです」
 そう言って頷いた横顔は、どこかうっとりとした様子だった。
 ──やっぱりこの人が見ているのは「人形作家の青羽拓人」なのだ。
 そんな当たり前のことを思って、胸が苦しくなる。
 いつからこんなに弱くなってしまったのだろう。あの「報われなくても、ただ想っていられるだけでいい」と考えていた自分は、一体どこへ行ってしまったのか。
「水森さん。……話って?」
「ああ、そうです。そのために来たんでした」
 水森さんはポンと手を打って、こちらに向き直る。
「想いを伝えてくれたこと、とても嬉しかったです。ありがとうございます」
 告白を断る時のテンプレ的な言葉が、水森さんの口から発せられた。
「……いえ。こちらこそ、笑わずに聴いてくれて、嬉しかったです」
 そう言ってなんとか笑おうとしたけれど、表情筋がいうことを聞かない。不格好に作った笑顔もどきを水森さんに向けた。
「ねぇ、青羽さん。さっき、言いましたよね。『期待するでしょ』って」
「言いました、けど」
「同じ言葉、そっくりそのままお返しします」
「……へ?」
「私は、貴方という人を大切に思っています。それは貴方が人形作家だからではありません。それは、ただのきっかけでしかない」
 こちらにまっすぐ向けられた視線は、極めて真剣なものだった。
「これは、貴方を大切にしたい気持ちは、青羽拓人という人に触れてきた時間によって培われた感情です」
「水森、さん」
「青羽さん、私は──期待をしても、いいのでしょうか。人形作家ではなく、ただひとりの人間である貴方に、触れてもいいのでしょうか」
「え、ど、どういう意味ですか、それ」
「青羽さんは言いましたね。『人形を介してしか自分を見てもらえない』と」
「……はい」
「私も、貴方に対して全く同じことを思っていました」
 それは、衝撃的な言葉だった。普段と変わらない表情で、水森さんは言葉を続ける。
「貴方は私にとって、神様のような人だ。その指先が形作る人形の美しさを見るたびに、私はある種の絶望感を抱くのです。私などが、貴方に近づくなど恐れ多い、と」
「神様なんて……大袈裟です」
「きっとこの気持ちは、私以外の誰にもわからない。でも、信じてください。私は貴方の作る人形と同じくらい、貴方自身のことも、大切に思っているのです。……おこがましくも、近づきたいと思うほどには」
「え、あ、あの、それって」
「人形作家としての貴方を崇拝していながら、貴方という人間を愛おしく想ってしまったのです。言葉を交わすうちに、貴方という存在を大切にしたいと、願うようになりました。……それでも、私と貴方は、ドールオーナーと人形作家でしかない。それ以上でも、以下でもない」
 優しいけれど、どこか乾いたような笑顔が、僕の目を真っ直ぐに射抜いている。
「私は貴方と、繋がりたかった。私のために、貴方が人形を作ってくれるのが嬉しかった。だから定期的にお仕事を頼んでいたんですよ。……そんなことを言ったら、軽蔑、しますか?」
「そんな。……軽蔑するなんて、そんなこと、ないです」
 僕だって、同じだ。水森さんと繋がっていたくて、僕の手仕事を喜んでくれるのが嬉しくて、僕は人形を作っていたのだから。
 水森さんは「よかった」と呟いて、安堵したように息を吐く。しかし、すぐにいつもの余裕ある笑顔に戻って、こちらに手を伸ばしてきた。反射的にぎゅっと目を瞑れば、頬に暖かな温度が、優しく触れた。恐る恐る目を開ける。先ほどよりもずっと近い距離に水森さんの整った顔があって、思わず飛び退きそうになった。……けれど、その反応すらも読まれていたらしく、水森さんのもう一方の手は僕の腰に回されている。
「……では、先程のの問いに戻りますね」
「……はい」
「人形作家ではなく、ただの人間である青羽さんに。触れても、いいですか」
 持てる勇気の全てを込めて。僕はコクリと頷いた。
「嬉しい」
 水森さんは、僕の頬を撫でる。完成したばかり人形に触れるような、優しげな手付きだった。手のひらで撫であげたと思えば、指先で頬骨の形をなぞる。やがて水森さんの指が僕の顎を掬い上げて、くいと上を向かせた。
 琥珀色の瞳が、甘い熱を帯びている。真っ直ぐにこちらを見つめる視線は許しを求めているようで、ああ、キスをされるんだとわかった。
 覚悟を決めてぎゅっと目を瞑れば、水森さんが微笑むような気配がする。
 そのままいつまでたってもキスが降ってこないから、恐る恐る目を開けた。
「水森さ、……んッ」
 名前を呼びかけたと同時に、唇が塞がれる。
 ちゅ、とわざとらしいリップ音を何度も響かせながら、角度を変えて幾度も唇を重ねる。
 目の前にある水森さんの顔は楽しげで、まるでおもちゃにでもされているかのような気分だった。
 遊ばないでください、と抗議しようと口を開いた瞬間、水森さんの舌が唇を破り開いて侵入してくる。
 舌が絡み合い、狭い部屋にくちゅくちゅと水音が響く。
 舌を吸われ、歯列をなぞられ、上顎や舌の裏を舌先で撫で上げられる。
 生まれてこの方、恋愛ごとに縁がなかった僕の体は、初めて感じる刺激にびくびくと震えてしまう。
「ん、ふあ……ん、んんッ」
 堪えきれなかった声が、唇の端からこぼれ落ちた。その声が随分高くて驚いてしまう。
 水森さんから逃れようと身を捩るけれど、いち早くそれを察知したらしい彼は、僕の腰をぐっと抱き寄せた。僕らの体はぴったりと密着して、まるでお互いの温度が混ざり合っているかのような錯覚を覚える。
 ──ひょっとしたら、このまま溶け合って、ひとつになってしまうんじゃないか。
 そんな戯言が脳裏にちらつくくらいには、長い長いキスだった。
 名残惜しげな軽い口づけを残して、水森さんの唇が離れていく。
 早鐘を打つ心臓を押さえつつ肩で息をしていると、水森さんは腰が抜けそうになっている僕をベッドに座らせた。
 額に軽いキスが降ってきて、僕を抱えていた腕が解ける。
「……驚かせてしまいましたね、すみませんでした」
 彼は僕の隣に座ると、眉を下げて僕の顔を覗き込んできた。
「大丈夫、です」
 荒い呼吸の隙間でそう答えれば、水森さんが僕の背中を撫でる。
 それからしばらく、僕らの間には深呼吸をする音だけが響く。……僕がまともな呼吸を取り戻すまでの間、水森さんはずっと僕の背中をさすってくれていた。
 呼吸がまともになってからもしばらくの間空間を支配していた沈黙を蹴飛ばして、僕は小さく頭を下げた。
「すみません、もう大丈夫です。ありがとうございました」
「私は何もしていませんよ。……もしかして、苦手でしたか? キス」
「まさか!」
 反射的にそう答えた後、ほんの少し悩んでから「初めて、だったので」と付け足した。
 恋愛ごととは無縁な生活を送っていたせいで、こういうことに不慣れなのだ。
 恋をしたことはあれど、その熱は人形作りに注がれるばかりで。触れ合うことはおろか、想いが通じ合うことさえ初めてなのだ。情けない話だけれど。
「初めて、ですか」
「はい。……今まで恋人とか、いたことがなくて」
「……ほう」
 短い返事をした水森さんの表情を横目で覗けば、彼がうっそりと笑っていることに気づいた。
 ──人形のように美しいかんばせが、内面から漏れ出した感情で歪んでいる。
 その様がたまらなくエロティックで、僕は慌てて目を逸らした。
「……お恥ずかしい話です」
「そうですか?」
「だってこんな歳にもなって、」
 そう言いかけた瞬間、水森さんの左手が、僕の右手を絡め取る。
「私は嬉しいですけどね。……貴方の初めてを、私が全て埋められるなら」
「え」
 驚きの声を上げた刹那、水森さんが僕の耳に唇を寄せた。
 耳たぶに軽い口付けをして、いつもより低い声で囁く。
「ね、青羽さん。……もっと深く、貴方に触れても?」
 ある種の覚悟をして小さく頷くと、水森さんは僕の肩をそっと押して、ベッドに優しく横たえた。




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