とある夏の夜、何の変哲も無い道に、大きな水溜まりがあった。
雨が降ったわけでもないのに道のど真ん中に無遠慮に広がっている擬似的な浅瀬。
人っ子一人通らぬ真夜中の暗がりの中で、秘めやかな異変が夜を侵食し始めていた。

最初は砂のように小さい泡沫がこぽりこぽりと音を立てた。それは時折大きな粒となってはまた消えていく、そんなことを何度か繰り返して暫く、何事も無かったかのように静けさを取り戻す水溜まり。
浅いはずのそこに、今度は影が揺らめく。
ざばっと、まるで深い海の底から飛び出すように水が跳ね上がった。

それは尖った爪の指先から骨張った腕、乾き始めた赤錆に彩られた髪。
ところどころ焦げあとを残したコートの下でたくさんの火傷と切り傷に塗れた身体を水溜まりの中からずるりと引き上げた。
水滴と血液とが、ぱたぱたと引っ切り無しにアスファルトに染みを作る。
鋭く尖った耳と犬歯、野犬のように細く開かれた瞳。それはまるで手負いの獣だった。
痛みか喜びか、ぎこちない発音で発せられた音が静かに大気を震わせる。

「やっと、でラれた」

飛び出した勢いのまま、どさりと地に投げ出された身体は全ての力を使い果たしたかのように脱力し、意識を遠くへと運んでいく。
狭まる視界の中、獣は唸り、体を濡らす水に紛れて悔し涙を流した。
彼処にはもう戻りたくない。ここで生きていたい、ただその一心でボロ切れのように成り果て、無様にも逃げ出してきたのだ。
ずるずると重たい四肢を引きずろうにも、体は言うことを聞かない。
意識の最後の糸が途切れる間際、泣き続ける獣は、どうしてか優しい少女の悲鳴を聞いたような気がした。
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