どん、と体を突き飛ばされて、一瞬の静寂とスローモーションののち、響いたのはどぼんという水に重い何かが落ちる音。
直後それはごぼごぼぶくぶくとまるで水の中に居るような音に変わって、全身がとても冷たい何かに包まれた。開いた口には冷たい液体が流れ込んで、それはとても塩辛い。
上を見るとそこはひどく歪んで、見えづらい景色の中、ひときわ異質だったのは小綺麗な洋服を着た女の人。歪みがひどくて人の形をしているようには見えないけれど、白い肌と赤いワンピースが綺麗だと思った。
数秒後、停止していた脳味噌が鈍く鈍く動き出して僕は漸く理解する。ここは海の中だ。
海だから塩分がたくさん含まれているはずなのに、浮力に逆らい体は沈む。見上げた女の人はとても見覚えがあって。沈みゆく中僕は女の人に手を伸ばす。届かないと解って、それでもなお手を伸ばす。
歪んだ海面に映る女の人は、やっぱり酷く歪んだ顔をしているのだろうか。
もうなにも、わからない。
***
がうがうと犬が吠える音で俺は目を覚ました。
「ん」に濁点を付けたような声を出してようやっと、意識がそろりそろりと浮上する。接着剤で引っ付かせた上に重りを付けたような瞼と錆び付いてしまった歯車のようにちっとも働こうとしない頭に、かなり長い時間眠りこけていたなと感じた。この間の休日に十二時間ぐらい寝ていたときの感覚と同じな気がする。
と、なると、あの時の経験からして体がやばい。ううん、と唸ってこれまた全身が鉛にでもなったのかと思うくらい重たい体を起こし、やっぱり重たい腕を天に向かって伸ばしてのびをする。
ここまで体が動かないとなんだか錆びたブリキの人形になったみたいな感覚だ。そんな人形になった事はないからこの表現で合っているのかはわからないけれど。まあそれはいいや。
伸ばした手を組んでのびを続けるとばきばきと骨が鳴る大きな音がして、ああ、これはかなりの時間を寝て過ごしたなあ、と確信した。寝なさすぎも駄目だけど、寝過ぎるのもいけない。明日からは注意しなくちゃな。
さて、そろそろ目を開こうか。そう瞼を持ち上げようとしたけれど、最初接着剤でくっついたかと思った程の瞼はまだまだ重たすぎて持ち上がらない。
まあ、朝日か夕日かそれとも蛍光灯からは知らないけど、瞼の裏がオレンジ色に見えるほどに辺りは眩しいのだし、まだ目を閉じていても良いだろう。ううん、やっぱり寝過ぎは良くないな。
目を閉じたまま今度は体をほぐす体操を行っていると、がさがさと何かがかき分けられるような音の後、がうがう、ばうばうと犬の鳴き声が聞こえた。その鳴き声に、そういえばこの音で目を覚ましたんだったっけ、と思い出す。
漸く軽くなってきた瞼を押し上げて辺りを見回してみると、目の前に――正確には俺の大きく広げられた股の間に――子犬が居た。赤っぽいオレンジの、トラ柄の犬……。初めて見る種類の犬だ。
その犬は真っ直ぐに俺を見据え、ばうばうがうがうと俺に向かって吠え続けている。威嚇するような鳴き声じゃないこれは、近所のおばさん家で最近産まれたという子犬のあの鳴き声に似ている。甘えて遊んでと言いたげな鳴き声だ。
俺はそろりと子犬に向かって手を伸ばした。それを見た子犬は吠えるのを止めて尻尾をゆっくりと揺らし、手の行く先を静かに見守っている。
俺の股の間にずっと座っていたことや怖がる様子がないことから、どうやら人には慣れているみたいだ。見たところ首輪は着いていないけれど、誰かの飼い犬なのだろうか。
ばう! と、焦れたのかそう一声吠えた子犬にごめんごめんと謝って子犬の頭を撫でる。すると子犬はがう、きゅわん! と鳴いて、尻尾をぶんぶん高速で振りだした。それだけでなく自ら頭を俺の手に擦り付けてくる。随分と構って欲しかったらしい。
うりうりぐりぐり、両手だけじゃなく全身を使って子犬を撫でて戯れる。そうすると子犬はそれはもう喜んだ様子で、ばうばうがうがう、きゅーん、きゅわん! と吠えて、ちぎれそうなくらいに尻尾を振りながら体全体で喜びを表してくる。
そんな反応をされて嬉しくならないやつがいるだろうか。もしかすればいるのかもしれないけど、俺は顔面が蜂蜜のみたいに溶けそうなくらい嬉しくなるタイプの人間だ。
よーしよしよし、かわいい奴め。溢れる愛おしさのままにわしゃわしゃとその毛並みを余すことなく撫でて、はしゃいだ子犬がごろんと腹を見せた瞬間、隙あり! とその腹を撫でくり回す。気持ち良かったのだろうか、きゅわんと鳴いた子犬はそのまま暫く腹を見せたポーズで撫でられ続けた。きゃんきゃんと若干喧しいくらいだった鳴き声は鳴りを潜めて、ヘッヘッと軽い息遣いだけが小さく聴こえてくる。
腹を撫でられることに飽きると、子犬は立ち上がって俺の周りを跳ね駆け回り地面の草葉を散らす。元気が良いことだとその様子を眺めていると、子犬はこちらへどすんと突進してきた。まるで一緒に遊べと言うかの如くこちらをその黒いきらきらとした瞳でじっと見つめ、尻尾を揺らしている。そんな目で見られて断れる俺じゃあない。
「よし、遊ぶか!」
「わん!」
そうして俺は立ち上がり、子犬とともに広い草はらへと駆け出した。 前へ|次へ |