「君、そこで何をしているんだね?」

 暫く続いていた俺と子犬の触れ合いに終止符を打ったのは、とても低い、そして厳格そうな声だった。こちらを警戒するようなそんな声だ。
 顔を上げ声の主の方向を見ると、俺と子犬から少し離れたところに声と同じ厳格そうな表情と険しい目つきのおじいちゃんが立っていた。
 側には……あれはなんだ、頭から炎が出ているサル? のような生き物を連れている。えっ、あれはなんだ? 動物虐待? サル死ぬんじゃない? あれ、でも肝心のサルは平気そう、というより、なんともなさそうな顔をしている。

「ここで何をしていると聞いている」

 厳格そうなおじいちゃんはそう言いながら、やっぱり頭から炎が出てるサルを連れて僕に向かい歩いてくる。ざくざくと草を踏み締める音がして、それは俺の目の前で男性とサルが立ち止まった瞬間に止んだ。
 サルの炎、この草とか木に引火しそうだなあ、と現実逃避しそうな頭を必死に現実へと連れ戻す。
 そしておじいちゃんはまた、「ここで何をしている」と、僕に問いただした。

「何を……って、何も。えっと、この子犬と遊んでいただけです……」
「…………質問を変えよう。君は、私の研究所、私の私有地で、何を、しているのかね」

 俺が質問の意味をわかっていないと思ったのだろう、男性はゆっくりと区切りを入れながら新しい質問を投げ掛けた。
 研究所、私有地。ここはこの人の私有地だったのか。知らなかったとはいえ勝手にここで遊びまわるだなんて、それは大変なことをしてしまった。さっさとここを出て帰らなければ。

「す、すみません、いつのまにか入り込んじゃったみたいで……すぐに出ます! ごめんなさい!」
「……まあ悪さをしていないのならば構わない。それより君、ここらでは見かけない顔だがどこから来たのだね? 研究員も君が研究所を通り抜けたのに気付かなかったみたいだが、ここにどうやって入り込んだ?」

 構わないと言いつつもおじいちゃんは俺への視線を緩めない。おじいちゃんの質問と同時に、隣のサルは少し身構えたようなポーズをとる。もしかしてあのサルは戦えるサルなんだろうか。そういう風に調教してあるのならやばいかもしれない。どうにか誤解を解かなくては。

「あ、あの! すみません、本当に悪さをするつもりはないんです! ここに入ったのも、いつのまにか、知らないうちにここに入っちゃってたみたいで……えっと、あの、本当にわざとじゃないんです!」
「君の様子を見るに、本当にわざと、悪さをするために入ったのではないのだろう。だが……」
「……だが………?」
「……この庭は、私の研究所を通り抜けた先にある。つまり、私の研究所を通らなければここには来れないはずなのだ。今日は朝からずっと職員が研究所にいたが、君の姿を見たものは一人としていない。君がここの監視カメラに映ってようやく気付いたからな」
「えっと……そうなんですね……?」
「ああ、そうだ」

 険しい目付きは数度言葉を交わしても緩む気配を見せない。目の前のおじいちゃんから発せられる威圧感に呼吸が浅くなる。やってしまったという焦りと怒らせてしまったという恐怖から、足が勝手に一歩下がる。
 するとそれを見たおじいちゃんは少しだけ目付きを和らげ、ひとつ溜息を吐いて首を振った。

「挨拶が遅れたな、私はナナカマドだ。この研究所の所長をしている」
「ナナカマド、さん……。俺は悠といいます」
「ハル、か。……やはりこの辺りでは聞かない名だ。もう一度質問をするが、君はどこから来た? そしてどうやってここに入り込んだのだね? 私はここの責任者だ。君がどのような人物で、どのように入り込んだのかを知り、ここの安全を確保する義務がある。……教えてはくれないかね」
「はい、あの、えっと……」
「焦らなくていい。君が悪さをするような人間でないことは分かる。でなければそこのガーディもそこまで懐きはしないだろう」

 そう言っておじいちゃんことナナカマドさんは足元の子犬を見やる。つられて視線を下げると、自分に視線が向いていることに気付いた子犬は尻尾をぶんぶん振り回してばう! と吠えた。この子、ガーディって名前なのか。珍しい名前だなあ。
 ……じゃなくて。そうだ、ここに来た理由と入っちゃった理由。早く答えないと、ナナカマドさんに失礼だ。えっと、なんでここに来たんだっけ、どうして、どうやって…………。


 …………………………、あれ?

「……おれ、俺」
「なんだね」
「俺、どうやって……ここに来たんだろう」

 あれ、あれれ。俺はどうやってこの場所へ来たんだろう。どうして? どうやって? 頭をうんと捻っても何故か答えが出てこない。ざざざ、と血の気が引く音が体内から聞こえた気がした。
 待って、落ち着いて。落ち着いて考えてみよう、朝起きて俺は何をした? 一つずつ思い出せばわかるはずだ。
 まず、昨日の晩、母さんに明日は出かけるからって言われて、この間珍しく買って貰えた新しい服と、近所の兄ちゃんにもらったお古のジーンズを穿いて、母さんと朝ご飯を食べて、大奮発して初めて新幹線になんて乗って。
 そうだ、海に行くって言われて、海なんて初めてだったし、母さんとのお出かけだなんてちいさい頃以来だったから浮かれて、はしゃいで、色々と話してたらあっという間に海についたんだ。
 母さん、海だよって、砂浜を駆け回ってはしゃぎまくってたら、いきなり冷たくて、寒くて、上を見たら女の人の顔は歪んでいて。

 あれ? あ、え?
 そうだ、そうだおれは。

 そうだ、母さんに。


 ああ。



 答えが出た瞬間、さいごのシーンが唐突にフラッシュバックする。
 冷たい冷たい水、塩辛い海水が口の中いっぱいに広がったあと、喉を食道を胃を侵食していく気持ち悪さ、歪んだ視界、空気を吸えない地獄のような苦しみ、全ての苦しみが去って意識がぼんやりとしていく瞬間、目を閉じる直前に少しだけ見えた歪んだ女の人。冷たくて暗くて、あとはもうなにも見えない。
 その先はもう、もうなにも、みえなかった。

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Proof