善悪を知る果実


 祖父母の代から使用人で、両親も勿論使用人。日常生活に絡みつく上下関係がごく当たり前のものとして育った。使用人の子供であるのだから、そんな私の友人も使用人か家中のものになる。

 沖縄の地に根付く名家こと神道家で、恐れ多くもご嫡男愛之介様と、使用人の子である忠。幼い私の交友関係はそんな狭い世界で形成されていた。とは言っても私はいくらか年下で、友人というよりも妹のように慈しみと親しみを受けていたものだ。流石に愛之介様を呼び捨てにするようなことはなかったが、年下の子供から呼び捨てにされても忠は少しも怒らなかった。その慣習は未だに抜けず、おかげで私的な場での呼び名は名前のままだ。

「なまえ、お菓子はいるかい?僕のおやつには多すぎるんだ」
「いけません愛之介様、夕飯の前ですから」
「じゃあ忠と分けっこします、ありがとうございます愛之介様」

 忠と愛之介さまの間に纏わりつく因縁も過去も、私は知らない。そもそもそんな愛執の舞台さえ踏ませてもらえない部外者だったとも言える。忠とは違い徹底的な離別は突き付けられないままに、神道家の使用人として息をする。愛之介様も忠も、大事なことは口にするような質ではない。こじれてねじれた二人の関係を、遠巻きに見守る第三者。それが私だった。

 確信には触れさせて貰えなくとも、二人の亀裂を決定づけたものがスケートボードであることぐらいは流石に知っていた。というか使用人のよしみで、キャップマンとして私も『S』に携わっている。開始当初は開催側の人員も少なく、私ですらも動員しなければならなかったからだ。無論その分の手当は貰っているので、特に異論は無い。

 だから私は、全てを外側から見ていたのだ。過去に起こった二人の離別も、忠の苦悩も、愛之介様の孤独も。そしてそれら全てが飛んで行ってしまったかのような、あの夜の愛之介様とスノーのビーフも。憑き物が落ちたような瞳で忠を見つめる愛之介さまと、何かを噛み締めるような表情の忠。全部全部、私は関わっていない物語だった。

「お前は一生僕の犬だ」
「はいっ」

 しかし流石に、扉越しに聞こえてきたこの会話には足を滑らせそうになった。ワゴンごと紅茶が台無しになりそうなのを、間一髪でそれでいて音を立てないように留める。これ、多分二人の絆の確かめあいだとは思うんだけど。如何せんワードチョイスが凄いことになっていた。

 とんでもない所に居合わせてしまったと、そのままそっとキッチンルームまで引き返した。いくら何でもあの雰囲気に割って入る度胸はない。小指をポットにひっかけて、ソーサーの上にわざと数滴零す。ミスをした為にお茶を持っていけなかった事にして、後で出直そう。そう考えていたのだが、気が付かないうちにシフトの交代時間になっていたらしい。他の使用人がワゴン運びをかって出てくれた。礼を口にしつつ、向かった先は使用人の休憩室。長机の前に据え付けられた椅子には、見覚えのある顔が座っていた。

「お疲れ様、なまえ」
「忠も休憩?前失礼するね」
「構わない、あと二十分ほどで出ていくから」

 何かの書類を確認していた忠が、こちらにちらりと視線を寄こす。そのまま持っていた書類を鞄に仕舞うと、私に向きあってきた。いや何故。書類を仕舞ったのは分かる。秘書という業務において、中には門外不出のものも有るのだろうから。しかしそこで私を見つめる意味は分からない。気まずい沈黙の中で、先に声を上げたのは忠だった。

「なぜワゴンを持ってきて、途中で引き返したんだ」
「えっ音聞こえてた?」
「先ほど運ばれてきたときに聞いた、本当はなまえが持ってくるはずだったと」
「紅茶溢しちゃったから、新しいのに替えてもらっただけだよ」
「そうか」

 そうすると忠は、再び黙ってしまう。視線は相変わらずこちらへ向けられたままだ。何、何なんだ。困惑しっぱなしだが、流石に長い付き合いで理解できる。こういう時の忠は、何か言いたいことを抱えているのだ。そして切り出し方をグルグルと考えている。これをそのままにしておいてはいけない。彼は言葉足らずのくせに、行動力は人一倍あるからだ。

「忠、何か私に言いたいことある?」
「気が付いていたのか」
「まあ、うん」

 表情は相変わらず乏しいながらも、少し驚いたような色が瞳に掛かる。本気で隠し通せると思っていたのだろうか。少し気になるが、本題が反れるのは本意ではない。言葉を続けるように、目線を彼の口元に向けた。ややあって、彼が口を開く。

「なまえには、私と愛之介様がどう見えていた?」
「と、言いますと」
「愛之介様を止めるのは罪深い己の責務だと、愚かにも逸っていた思い悩む男はどう見えた」

 予想の五十倍は重い相談だったので、思わず口ががぱりと開いた。はしたないので直ぐに口は戻したが、開いた口がそのまま塞がらなくなるところだった。この人は地頭が良いはずなのに、こうして己の事となると途端に解像度が下がる。そういう時には友として、僅かながらの助言を渡すのが常だった。

「私には、二人が青い鳥に見えていた」
「青い鳥……童話の?」
「愛之介様のイヴは、きっと愛之介さまの中にしかいなかった、本当に愛之介様が求めていたのは」

 そこまで言葉を口にして、忠の左胸を指先で突いた。スーツ越しにでも彼の引き締まった筋肉の存在が分かる。スポーツをする人の身体、スケートボードをしてきた人の身体だ。私とてキャップマンになるにあたってルールを覚え、軽い手ほどきも受けはした。それでも私の熱狂はレースコースには無く、観客席の身勝手な歓声の中に潜んでいた。

「アダムに林檎を与えたのは蛇、イヴはアダムに寄り添えど知識を与えはしなかった」
「そのせいで楽園を追われたとしてもか」
「愛之介様が何を楽園とするかはあの方の自由、ならば蛇は神に四肢を削がれてもその楽園に留まらなくては」
「贖罪のため?」
「いいえ、愛ゆえに」

 結局のところ愛之介様が求めていたのは、自身に寄り添うイヴではなかった。スケートボードという世界を与えておきながら、忠が自身の元を去ったという憎み蔑みが彼を突き動かしていて。忠はまた、スケートボードという知識を無垢な人間に与えたと己を罪深き蛇になぞらえただけ。

 こんがらがって、ねじ曲がって、絡み合った視界では何も映るまい。すぐ隣に置かれた鳥かごには幸福の青い鳥がいることを、二人とも見えなくなっていた。部外者だった私は、それがほんの少し遠巻きな全体像として見えていただけ。読者が物語に意見することぐらい、偶にはあっても良いだろう。

 突きさしたままの指を引こうとした私の手のひらを、そのまま握りこむ腕がある。ゴツゴツしていて骨ばって、私のもとは違う忠の腕。それなりに強く引いても、ビクともしなかった。

「ならばなまえは、知恵の実だ」
「物語の部外者を、舞台に上げるのはマナー違反でしょう」
「四肢を削がれた蛇が、それでもなお持ち得た知識を手放すとでも思うのか」

 素直に驚いた。この人の世界を形作る要素に、私が入っているなんて今まで思いもしなかったから。だって貴方は、舞台の上の人でしょう。観客席何て押しのけて、コースの上で喝采を浴びる人でしょう。私は物語の部外者、第三者。そうして見つめられては、勘違いしてしまいそうになる。

 握りこまれたままの手のひらが、そのまま忠の口元に寄せられて爪に口づけられた。微かなリップ音が響くのを、他人事のように聞いていた。何が忠実な犬だと反論しようとして、私は愛之介様でないことを思い出して押し黙った。

「熟れて実った知恵の果実の味を知ったなら、欲深い蛇は果敢に食らいつくのが道理だろう」

 こちらを見上げる忠は、今までにも数度しか見せたことのない笑顔であった。良くも悪くも吹っ切れたこの人が、こんなにも本能めいた欲を見せてくるとは考えもしなかった。ああ、蛇に睨まれた蛙ってどうなるんだろう。せめて痛みもなく飲み込んでほしいと、心の中で懇願するばかりだった。