春に溺れる

 
 春も盛りだ。帝国図書館の庭はそれなりに広く、定期的に庭師を呼んでいることもあり、季節ごとに折々の華やぎを見せている。大きな桜の木が満開に立ち並んでいる様は、素人目に見ても壮観であった。

 そんな心浮き立つような情景が身近にあるとなれば、程度はあれど風流を好む者が多い文豪たちが黙っているはずもない。週の終わりに定められた休みの日に、誰ともなく花見の酒盛りが始まったのは当然とも言えた。

 常なら酒を飲まないような者も、今日は春の陽気にあてられたのか、みな盃をあおっていた。日ごろから酒をたしなむ中原や若山も、祭りのような活気の中でいつもよりも楽しげに見える。司書はざわめく人の中を、手に持ったコップの中身をこぼさないようにすりぬける。そうして、茶を持ち少し離れた場所に座り込む背中に声をかけた。

「佐藤先生、お飲物お注ぎいたしましょうか」
「おお、アンタか。俺が下戸だからといって、こんな時まで気をつかわずとも構わないぞ?」
「それも少しはありますが、私が佐藤先生とお話したかったのですよ」
「なら無粋な事をしてしまったなあ。アンタみたいな美人に酌してもらえるなんて機会は、早々無いからな」
「あらまあお上手。お隣、失礼いたしますね」

 くすくすと笑いあい、隣り合ってふたりは座る。庭には館長がどこからか持ち出してきたブルーシートが一面に引かれ、皆が思い思いに転がっている。佐藤の周りのシートには、料理の取り分けられた紙皿がいくつか並んでいた。

「おにぎりが鮮やかですね、江戸川先生ですか」
「さっきまで谷崎と一緒になってやたらと絡んできてな。アイツなりに場を楽しませようとしてるのは分かるんだが、どうにもその握り飯には慣れない」
「楽しい事が好きな方ですからね。こんなお祭りみたいな日ですもの、うきうきとしてしまうのはとても分かります」

 日差しも暖かく、風も優しくそよいでいる程度。うららかな今日は楽しくなってしまって、ついつい掴んだコップを飲み干す速度も早くなる。底にほんの少ししか残っていない中身をジトリと睨んでいる司書に、佐藤は合点がいったような顔をした。

「司書さん、アンタもしかしなくても酔ってるな。」
「あら、バレてしまいましたか。お茶割りですから見た目にはさほど分からないと踏んでいたのですが」
「初めは気が付かなかったさ。けれどすぐに匂いで分かるし、今日のアンタはやけに饒舌だからな」

 佐藤相手に隠し通せるなどとは端から考えてはいなかったが、こうもアッサリとばれてしまうとは。何となくいじけた子供のような気分になって、佐藤の顔をジッと見つめる。そんな子供じみた司書の言動をたしなめるでもなく、佐藤は司書を笑って見つめ返してきた。

「佐藤先生は、お名前の通りに春のような方ですよね」
「それは褒め言葉か?」
「もちろんですよ」
「佐藤先生は陽だまりのようです」

 春の陽だまりのような人だ、と思う。面倒見の良い性格と明るい人柄。時折肌寒い風の吹くこともあるが、命の生まれる息吹がそれを覆い隠す。暖かい春の日のように心地よい佐藤のそばには、おのずと人が集まってくる。彼の門弟たちも、そんな彼だからこそ惹かれ、慕っていたのだろう。

 暖かくて優しくて、そばにいたいと思わせるような。離れがたくて忘れられなくて、追いかけていきたいというような気持ちすら抱かせる。

「そんな佐藤先生が、私はとても好きなのですよ」

 佐藤は司書のその言葉を聞くと驚いた風に目を瞬かせ、言いづらそうに口をまごつかせた。

「あー、アンタ、それは。うん、嬉しいんだが、な……」

 司書は成人してそれなりに経つ、いわゆる妙齢の女性だ。れっきとしたひとりの女性である彼女が、ふにゃりといつもよりも締まりのない顔で発したその言葉は、まるで愛の告白のようだと。他意が無いことはわかっていても、一度そう認識してしまえば意識をそちらから離すことが出来ない。

 いつもより潤んだ瞳、コップに口づける唇、白く細い指は艶めかしく、酒を飲むたびに上下する喉。餓鬼じゃああるまいにと心の中で己を毒づきつつも、目の前の女がやけに眩しいものに思えて、見ることが出来ない。

 咲き誇る桜、おだやかな風、どこか遠い喧噪を背景に女はいっそ残酷なまでに微笑んでいる。あっという間にあらわれたかと思えば、瞬く間に心をさらって過ぎさっていってしまう。そんな司書こそよっぽど春のようではないかという言葉は、何故だか伝えられずに胸の底へと沈んでいく。

 ああ、これだから酒は苦手なのだと、男は女の持つコップをただ睨め付けることしかできなかった。