気付かせないでハニー


 夜も更け切って静けさが耳に痛いような部屋で、たったひとり書き物をしていた。繭のように閉じ切られた空間は、扉の前でドカドカと鳴る足音に掻き消されてしまう。

 一体こんな時間に誰かなんて、尋ねなくても分かってしまう自分が嫌になる。そんな逡巡すらもよそに、乱暴に一度だけノックして開けられた扉がギイと鳴った。扉の前に笑顔で立っているのは、長い髪をおさげに結った赤い瞳の男。織田作之助その人だ。

「おーっしょはん、こんばんはぁ」
「こんばんは、先生」

 ずかずかと部屋に入り込んできた織田が、執務机前のソファへと座り込む。バサバサと原稿用紙を広げ始めたあたり、司書室に長居をするつもりらしい。我が物顔で戸棚から灰皿を取り出し、煙草まで吹かしはじめた。一連をジッと見つめる司書の視線に気が付いたらしい。煙草の右手の指先に挟んだまま、織田は己の額を左の手で小突いて見せた。

「そんな額にしわァ寄せて、もう夜やし息抜きしたらどうですの」

 しかめ面の自覚はなかったが、気づまりしていたことは確かだ。机の引き出しに書類をしまい込んで席を立つ。向かい側のソファに座ろうとした司書の腕を、織田は掴んで有無も言わさずに引き寄せた。

「ソッチやのうて、コッチ」
「はあ」

 自分の隣に女がおさまったのを、男はニンマリと満足げに笑っている。そしてそれきり、視線は原稿用紙へと落ちた。カリカリと文字を綴るペン先の音だけが雄弁だ。司書は何をするでもなく、ただソファに座っていた。

 首だけを動かして、くわえ煙草でペンを動かす織田の横顔を見つめる。こうしている間も頭にこびりついて離れないのは、自分とこの男の関係は、いったい何と名付けられるものなのかという疑問だった。

 こうして織田が司書を訪ねてくることは、今までにも度々あった。ふたりで酒を呑んだり、食事をしに行くことも、夜の中庭を散策にぶらつくこともあった。そうしてそのまま、いわゆる男女の営みとやらにもつれ込むことだってある。

 どれだけ行為が離れがたいものだったとしても、織田は朝になれば必ず姿を消していた。司書が目を覚ますと、乱れたシーツも脱ぎ散らかされた衣服も消えていて、ともすれば昨夜のことは夢とも思いこみかねなかいような光景が広がるのだ。それでも、ひりつく内股と散らばる鬱血痕だけは司書の体に残された。それだけが、ふたりの行為の証だった。

 日中の織田は快活で明朗な青年だ。何くれとなく司書の世話を焼くことはあっても、色めいた様子は微塵も見せない。情交と呼ぶには浮いた言葉のひとつもなく、性処理と割り切るには向けられる視線に絡む蜜のような熱が気にかかる。答えを導き出すことが、とてつもない難題のように感じた。

 ジュウと音がして、煙草が灰皿に押し付けられる。指先で灰を払うようにはためかせて、織田がこちらに顔を向ける。ふいに重ねられた唇は、とうに覚えてしまった煙草の苦味がした。

「おっしょはん、考えたらアカンよ」
「でも織田先生、私は」
「駄ァ目、ええ子やから。なあなまえ」

 でも先生、私たちの関係は何なんでしょうか。答えが無い事が怖いんです。こうして名前をつけられないままに、背骨を溶かすかのように甘やかされては。私は貴方なしで生きることが出来なくなってしまう。いつか来る別れの日が、ひどく恐ろしいんです。口にしようとした呟きは、すべて重ねた唇に消えていく。

「ひとりでなんて、立てんようにしたるから」

 司書の背中が、ソファの上に沈み込む。覆い被さった男の口から聞こえた言葉が、とろけた頭に意味を持たずに響いていた。