目をそらさないで


 客席ではじめてみょうじなまえの姿を見かけたとき、牧は特に何とも思わなかった。常勝を掲げる海南の試合には、校内外を問わず観客が多い。軽い気持ちで応援しに来る生徒も珍しくはない。そしてそんな観客は、一度試合を見れば満足してしまう。だからなまえもその類なのだろうと考えた。きっと次の試合で彼女の姿を見かけることは無い。よくある事だ。

 しかしそんな牧の予想に反して、なまえの姿が観客席から消えることはなかった。流石に授業のある平日は姿を見せなかったが、休日に行われる試合にはほぼ全て。その同級生は観客席にあらわれた。

 みょうじなまえはいつも出来るだけ客席の中間地点、向かって右の一番端席に腰掛ける。そして試合が始まってから終わるまで、真剣にコートを見つめている。

 大きな歓声を上げはしないけれど、海南が点を得る度に嬉しそうに笑む。部員が惜しいプレイングを見せれば、むず痒そうに両手を握る。そして勝利を得たならば、拍手をしたあとに客席を去って行った。どんな会場においても、なまえは控えめながら確かに海南を応援し続けていたのだ。

「牧くん、ノートを貰ってもいいかな」
「ああスマン、出し忘れてたか」
「ううんそんなこと無いよ、今さっき集め始めたの」

 数学の時間に教師から頼まれたのか、なまえがクラス中のノートを集めている。その量をひとりで運ぶには重いのではないか。手伝いを申し出ようかとも思ったが、奥でもうひとり別の女子生徒が段ボール箱を抱えていた。なるほど、どうやらふたりで運んでいくらしい。牧からノートを渡された彼女は、ニコリと笑って箱のもとへと行ってしまう。

 そう、牧となまえは面識が無いわけではないのだ。何の因果か3年間クラスが同じであった為に人並みの情報は知り得ている。ボランティア部に所属していること、運動は苦手らしいこと、そして同じ委員会である神と仲が良いこと。

 なまえが常に客席にいると気がつきはじめた頃、試合終わりの客席で神と彼女が話しているのを見た。ふたりは何か小さな声で会話をして、笑いあった。そして小さな紙袋を神に渡しており、神もそれを快く受け取っていた。

(ああ、神に会いに来ていたのか)

 その光景を見かけた牧はこっそりと頷いた。はじめは好奇心から観戦に来て、そのうちに神と親しくなり応援に来るようになったのだろう。

 理解はしたが、ほんの少しばかりのさびしさがあったのは事実だ。毎度の試合に応援に来てくれる同級生が、たったひとりを応援したいと心を定めた。微笑ましいことであるのに、何だか腑に落ちなかった。

 これからのなまえは神だけを見つめる。その視線の先にあるのはコート上にて縦横無尽に駆ける牧ではなく、ましてや他の部員でも無い。牧はその事が無性に気に食わなくて、今なおモヤモヤとしている。

 きっと子どもみたいな承認欲求でもあったのだろう。世界中で誰よりも一番に自分を見て欲しいと考える、幼稚な思考だ。そう考えて思考を途中で止めた牧が、そのモヤモヤの本当の正体に辿り着くことは終ぞなかった。

「牧くん、私日誌書くから黒板綺麗にしてきてくれる?」
「分かった」

 ある日、牧はなまえとふたり日直当番のために放課後の教室に残っていた。本来であればなまえの担当日はずっと先なのだけれど、急病で欠席した同級生の替わりを買って出たらしい。あまり交流こそ無くとも、細かなところで滲み出るそういった優しさを牧は好ましく感じていた。

「ごめんね、たしか試合近いんでしょう」
「これくらいは大したことじゃ無い、気にするな」

 日誌に視線を走らせながら、ペンを動かして彼女が呟いた。放課後に牧を居残らせて、部活に行く時間が遅れていることを気に病んでいるらしい。確かに明後日は練習試合が有るが、日々の練習メニューは怠らずこなしているのだから何ら問題はない。そう考えていた牧は、ふとになまえに問いかけた。

「試合、今回も見に来るのか」
「牧くん、知ってたの?」

 カリカリと響いていたペン先の音が止まり、なまえの顔が驚愕に染まる。そういえば牧が彼女を毎試合観客席で見つけていることは、誰にも話したことが無かった。それはもちろん、本人にもだ。

「毎試合居るとなれば気がつくし、目にだって入る」
「ああ、やだ、恥ずかしいな……」
「いつも右に居るだろ、隅っこの方に座ってて」
「本当に気づかれてたんだ」

 なまえは顔を真っ赤にして、手の甲で口元を隠すように目線を逸らしている。どうやら本人としては、誰にも気付かれないように秘密にしているつもりだったらしい。そんなに恥ずかしいことでもないだろうにと訝しがるが、人には人の感性があるのだからと思い直した。

「えっと、じゃあもしかして、私がずっと一人だけ見てたこととかも……知ってる?」
「知ってる」

 神の事だろう、とはあえて言わなかった。今更分かりきったことを確認する必要はないからだ。目の前の彼女はますます顔を赤くして、机に突っ伏すように顔を隠した。少し悪いことをしただろうか。小さな罪悪感が牧の心を過ったが、謝るのも何か違うような気がした。

 言葉にならない音を数度呟いた後、なまえはいきなり立ち上がった。そして勢いよく己の鞄の元へ駆けていく。何かを慌てて探し出したあと、小さな紙を引っ掴んで戻ってきた。そのままちいさな紙、もとい手紙は牧の目の前にずいと差し出された。

「好きです」

 震える声と真っ赤な顔を隠そうともせずに、なまえが思いを告げている。封筒の宛先には細い字で牧紳一さまの宛名が踊っていた。

「1年生の頃に一目惚れして、それから応援に行くようになって……二年生になってからは宗くんが、あっ従兄弟が、バスケ部に入ったから……色々と牧くんのこと、聞いたりして」

 呆気にとられて手紙を見下ろす牧の脳内を、様々な思考が通り過ぎる。従兄弟の宗くん、とはおそらく神のことだろう。つまり特別な仲だから神を見に来ていたんじゃなかったのか。じゃあ誰を、と間抜けなことを考えて即座に思い直す。ああ、最初からオレだけを見に来ていたのか。

「でも迷惑にはなりたくないから、お返事要らないです。手紙も読んでくれなくていい、応援も、来るなって言われたら……行かないから……」

 牧が思考する間にも、懺悔のように告白は述べ続けられていた。震える手に握られている手紙の端が、くしゃくしゃになっている。どんな思いでそれを書いてくれたのか、牧には推し量ることしかできない。だから牧は、手紙をそっと引き抜くようにして受け取った。

「応援には来てほしい」
「え、」
「手紙も読むし、きちんと返事もする」

 手紙を差し出すかたちで固まった手を上から手のひらで握り込む。牧が触れた場所から、肌が燃えるように熱を持つのが分かった。上がり続ける体温を感じながら、牧は言葉を続ける。

「それで次の試合からは堂々とオレに声援を送ってほしいんだが、どうだろうか」

 あの日抱いたモヤモヤが晴れるような心地だ。牧はようやく、己がずっと言いたかった言葉を理解したのだ。

 ずっとオレを見てほしい、時にはオレだけに声援を送ってほしい。そして勝つと心から信じて、試合のあとには愛らしい笑顔で感想を聞かせてほしい。

 それこそが恋と呼ばれるものなのだと、誰かが脳裏に囁いた。