#5 甘い午後の誘惑


「おっ?」
「やあ」

 化粧室を出たら愛抱夢と出くわした。友人に誘われて訪れた有名ホテルのアフタヌーンティー。ちょっと化粧を直してくると席を立ったらこんな事態だ。何故こんな場所に愛抱夢が、と問いかけようとして気がついた。確かこのホテルはホールだか何だかも併設しているので、そこで政治家としての会合でもあったのだろう。

 何時までも化粧室の入り口で立ち尽くしているのも邪魔になるだろう。挨拶して別れようとすると、そのまま目線だけで直ぐそばに据え付けられたソファーを示された。少し話していけということか。まあ、知己との交流を無碍にする理由も無し。拳幾つかぶんの距離を開けて、ソファーで二人並ぶことになったのが先ほどの話だ。

「愛抱……ええと、神道先生はお日柄も宜しく」
「そこまで畏まらないで良いよ、公の場じゃないしね」
「あっ本当?じゃあ愛ちゃん、今日はお仕事で来たの?私はそこのレストランでお茶しに来たんだけどさ」
「君も存外切り替えが早いよねえ、雅ちゃん」

 そこまで会話したところで、二人して肩を震わせる。先に悪乗りしたのは私だが、乗ってこられるとは思わなかったのだ。何というか、違和感が先だって笑ってしまう。学生時代だって、本名で呼び合う機会は少なかった。彼の前で私はグレイスで、私の前で彼は愛抱夢なのだ。

「戻らなくていいの、お仕事中でしょう」
「今は丁度休憩時間だからね、友人と話してる方が気が楽だから」

 友人。まさかそんな言葉が彼の口から飛び出ようとは。煌めいていた青春時代を越えて、私たちの交流には深い断絶が横たわっていた。それはつい最近までもそうで、苦々しい兄と幼馴染の顔を幾度見たかも知れない。

 多分、彼を変えたのはあの日のビーフ。そして彼を変えたのは私たちではなく、ランガや暦といった少年たちの影響が大きいのだ。大人は経験を蓄えて色んな事が出来るようになるけれど、向こう見ずで勇敢な子供たちの可能性には叶わない。

「お兄さんはその後元気かい」
「怪我させた張本人が何を白々しい」
「まあね、でもこういうのって聞いておくものじゃないか」

 薫の入院費はいつの間にか、何者かに支払われていた。病院側に記録された名前はでたらめで、連絡先も存在はしていなかったけれど。きっと愛抱夢がやったんだろう事は察しが付いた。金のやりとりでチャラに出来るような問題じゃないとは思うが、それに関して薫は何も言わない。なので私にも、何かを愛抱夢に言う権利はないのだ。

 それでもあの日のビーフ以降、愛抱夢は変わった。派手で突飛な振る舞いも、何を考えているかいまいち分からない言葉遣いも変わり映えないけれど。有望なスケーターを潰すような悪癖はパタリと鳴りを潜めたのだ。まるで愛を知った子供のように、愛を思い出した大人のように。瞳の奥に輝く光の色が変質したと言い換えても良いかもしれない。

「愛ちゃん、ちょっと大人になったよね」
「とっくの昔に成人ならしたさ」
「愛を知った顔をしてるよ、其所にあったことに気付いた顔かな」

 彼が私の全てを知らないように、私も彼の全てを知らない。けれどあの日あの頃に、私たちは紛れもなくスケートボードで繋がる仲間だった。彼が変質してしまったことを止められない程には、私たちは無力だったけれど。こうして戻ってきてくれたのなら、素直に祝う程には彼を友人として思っていた。

 愛抱夢もそれを察しているのか、特に反論はしてこなかった。私たちは難儀なまま大人になって、どいつもこいつも素直じゃない。単に気恥ずかしいのか、応える気も無いのかは分からないけれど。こうしてまたソファーで並んで座れるほどには、私たちの交流は復活した。今はそれだけで良いのだ。

「愛のことを言うんなら、君もだろう」
「えー、何が?」
「何時になったらジョーとくっつくんだいグレイス?」

 思ってもいなかった言葉に、驚いて彼の顔を見る。してやったりという風に微笑んでいるのが憎らしい。それにしても、私の思いってそんなにバレバレだったんだろうか。この愛を謳いながら愛に程遠かった男にもバレていたのなら、私は本当に隠し事には向いていない。

「祝電ぐらいならいつでも送れるよ、伊達に政治家やってないからね」
「話が随分飛ぶじゃん……」
「怖がってビーフの場にも出てこないなんて、グレイスらしくもない」
「喧嘩なら此処じゃない所で買うけど」

 あからさまな挑発交じりの言葉にも、彼は肩をすくめて笑うだけだ。この暖簾に腕押しという感じの会話のやりとりも久方ぶりだ。頭も言葉もキレる人間との会話は、これだから疲れる。

「まあ本当にダメだったらさ、僕のところにお嫁にでも来るかい」
「アンタ、私とセックス出来るの?」
「勿論できないさ、そういう対象じゃないもの!まあそれぐらい君には選択肢があるんじゃないかってことさ」

 伸びをした愛抱夢が、ソファーから立ち上がる。時計を見れば、ついつい話し込みすぎていたようだ。休憩時間とやらももう終わりだろう。気が付けば秘書の男性が、近くまで愛抱夢を呼びに来ていた。確かスネーク、もとい菊池さん。二言三言会話を交わした愛抱夢が、何か封筒を菊池さんから受け取る。そしてそのままそれを私に投げて寄こした。中に入っていたのは、ここのホテルレストランで使える商品券だった。

「あげる、貰ったけれど使う機会がないからね」
「じゃあ有難くおやつ代にさせてもらうわ」
「うん、きっとその方が良い」

 こちらを見た菊池さんが会釈をして、後ろ向きに手を振る愛抱夢と廊下の向こうへ消えていった。言葉足らずで分かりにくいけれど、多分彼なりに気遣ってくれたんだろう。いびつで、難儀で、ひねくれて大人になった私たちはそれでもあの頃には戻れない。きっとそろそろ、逃げていられる時間は終わりだった。
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