chapter:に タバコの匂い。ぼんやりと意識が浮上する。気怠いままなんとか目を開けると、まず兄の背中が見えた。そして背中越しにゆれる煙。さらにその向こうにはすっかり暗くなった空。窓は開いたままらしく、相変わらずカーテンがふわふわと揺れている。なんとなく声を出さないまま、しっかりと筋肉のついた兄の背中を見つめていた。 兄がどんな風にひとに触れるのか、考えなかったことがないと言えば嘘になる。この壁の薄いアパートでは、耳をすまさなくても近隣の住民の生活音があちこちから聞こえてくる。居間と寝室なんて、部屋が隣りあわせならそれこそ筒抜けだ。 中学二年生くらいの頃だっただろうか。珍しく兄に今日遅くなるから先寝とけと言われ、言いつけ通り短針が真上を指すより早くわたしは布団に入った。寝つきは良い方で、目をつむればすぐ眠りに落ちた。が、しばらくして、何かの物音にふと目が覚める。十中八九兄が帰宅したのだろうが、なぜか違和感を覚えた。体を起こし、なんだろうと目を擦っていると、「…あ、んっ」はたと動きが止まる。わたしは息を殺し、ゆっくり壁に近づいた。聞きなれない声、壁一枚隔てた向こう側で行われていること、わたしだって知識がないわけではなかった。まさか、という思いはあったものの、ある程度のおそらく間違いない答えが出ているにもかかわらず、気付いたらわたしはぴったり耳を当て、想像通り兄と見知らぬ誰かの痴情に聞き入ってしまったのである。 ただ、一つ断っておきたいのは、それはその対象が“兄”であったからではなく、思春期特有の性への関心からくるものであったということだ。自分のいる部屋の隣でそういうことが行われていれば、思春期の子どもなんてほいほいつられてしまう。それはわたしも例外ではなかったのだ。いつもその辺に放置されているいやらしい本だったりDVDだったりならまだしも、現実、兄の彼女なら尚のこと。 「…ん、目覚めた?」 ふと振り返った兄がわたしの視線に気づいた。寝転がったまま、ろくに目も開いていないがこくりと微かに頷くと、兄はタバコの火を揉み消してこっちに向き直る。 「気分どう?」 「……タバコくさい」 「え〜?タバコ?さっきまでのあつぅ〜い時間に対しての感想はぁ?」 「……あつい」 「…あ、そう…」 なんだよムードねぇなとぼやきながら扇風機まで這っていき、ボタンを押す。ふわーっと風が流れて汗ばんだ素肌に気持ちいい。目を瞑れば戻ってきた兄が隣に寝転がる気配。 「あ〜すずし〜」 当然のように首の裏に腕が通される。いわゆる腕枕だ。 「あつい…」 「は?俺のたっくましい腕枕で眠れんだぞ、他に言うことあるだろ」 「ごつごつしてる…寝にくい…」 「だからぁ…そうじゃなくてさ…」 なんだよもう…素敵ぃくらい言ったっていいだろ。また兄がぼやく。 ちらっと兄を見上げると、空いてる左腕でなにやらごそごそしている。明日は非番だけど、署に用事があるらしいから目覚ましでもセットしているのだろうか。なんとなくその横顔を見つめながら、兄は性格はアレだが、顔は整ってるんだよな、といまさら思った。それからすぐに、今まで何人の女の人がこの場所からこの横顔を見たんだろうと考えた。 「……?なに、どしたの」 中学二年生のあの時以来、兄は何遍も見知らぬ誰かを家に連れ込んでいるようだった。わたしは一度もその見知らぬ誰かとでくわしたことはなかったけれど、その誰かの声だけは何度も何度も聞かされた。声が変わるたび心がもやもやした。ずっと兄と二人で過ごしてきたこの空間に、自分の知らない誰かが入ってくること。今でこそ愛のない関係でもそんなことざらにあるとはわかっているけれど、当時のわたしはそういうことはお互いが愛し合っている証拠であると思っていたから、あくまで家族愛として見知らぬ誰かに兄をとられたと思うようなこともあった。嫉妬と呼べるかもわからないほどの幼稚なものだけれど、兄が自分から遠ざかるようで悲しくなったのを覚えている。聞き耳を立てたのは、中学二年のあの時が最初で最後だった。 「なァに、またしたくなっちゃった?」 じっと見つめるわたしに対して、ぺろっと舌を覗かせた兄は、言うが早いか伸ばした手で剥き出しだったわたしの胸の突起を弾いた。びくっと震える体を抑えてさっと兄から距離を取ると、くすくすと可笑しそうに笑う。 「かっわいいなァ。初心だね〜日向は」 「…兄さんはおじさんくさいね」 「んだと?まだまだ若いっつーの」 ほらこっちこいと離した距離を簡単に取り戻される。引き戻された兄の胸元は硬くて熱い。 「あついよ」 「いーだろ」 「べたべたする…」 「日向の肌はきもちーけどな」 ぽんぽんと寝付かせるように頭を撫でられ、なんだか昔みたいだなあとぼんやり思った。腰に回された手がなんとなくやらしい手つきをしているような気がするけど、徐々に微睡めばそれすらも気にならなくなっていく。大事なものを守るように抱きしめられて、悪い気はしなかった。そして、きっとこんな夜がこれから幾度なく繰り返されるんだろう、という仄暗い予感が、胸の奥の方でずくりと熱を燻らせた。 |