「日向さん」
「え」

家への帰り道、名前を呼ばれて振り返ったら黒いスーツに赤髪、鋭い目、頬に傷。どっからどう見てもカタギとは思えない風貌の男性が立っていた。その姿を目に映したとき、反射的にふるっと肩が震えて、慌てて体を反転させた。び、っくりした、なんで振り返っちゃったの、だって名前呼ばれた気がした、でも聞き間違いにちがいない、ありえない、だってこんな怖い雰囲気の人知り合いにいないし関わり合いにもなったことない、そもそもこういう人たちとは関わらないのが一番なのだ、よって今の全部聞き間違いによる事故みたいなものなので見逃してください、そう思っても体は前に進んでくれない。あれ、なんでだろう。と、思っていたら右手に違和感。しっかり握られた手首が誰に握られてるかなんて、今はわたし以外にはもう一人しかいないこの道では考えたくなくても一つの答えしかない、けど怖くて振り向けない。

「日向だな」

さっき聞こえた(ような気がしたことにした)わたしの名前がまた聞こえた。これも気のせい?だよね?さっきはまだちょっと伺うような、控えめな声だったけど今度は何か確信めいたものが含まれているような、そんな気がする、でもそんなこと有り得ない、たとえわたしの名前が日向でもそんなのよくある偶然だ、ほら向こうから歩いてくる人も日向さんで、そっちの日向さんに呼びかけてるんだよきっと、そしたらこの掴まれてる右手の意味はわかんないけど、ほら、ね、向こうから歩いてくる人が…え、あ、い、ない。悪寒が、嫌な予感が確信に変わって、掴まれた腕をぐっと引っ張られて体を反転させられる。持っていた鞄が地面に落ちた。あっと思う間も無く鋭い目とご対面。

「あ、あ、あの、どちらさまで…」

展開について行けない。絞り出した声は我ながら情けなく震えていて、こんなの会社の同僚に聞かれたら笑われる、それぐらいちっちゃくて震えてて。でも取り繕う余裕なんてない、この不審者というかカタギじゃない雰囲気バリバリの人に突然声かけられて腕掴まれれば誰でもそうなる、どうしよう、声あげる?いやむりさっきの声が精一杯なのにどうやって大声出せばいいの第一下手なことしたら、な、殴られる?嫌だ痛いのは嫌だ、書類で指切っただけで涙滲むくらいなのに、そういえば今日も指切ったばっかりだった、電車にも乗り遅れて会社まで走る羽目になるし、週一の楽しみの仕事終わりのコンビニスイーツも今日はお気に入りのプリンが売り切れで、コンビニはしごしたのに売り切れで、だからわざわざ遠回りしたのだ、この人通り少ない道も家への近道つもりで通ったのに、まさかこんなシノギの人に絡まれるなんて。厄日すぎる。そう考えたら突然掴まれてる腕に痛みが走った。

「いっ、たあっ」
「日向」
「ちょ、や、はなして!」

ぎり、と手首が締め上げられる。咄嗟に手を振りほどこうとするけどびくともしない。赤髪男はただわたしを見下ろしている。その目が怖くて、半ば暴れるようにもう片方の手を振り回す、と、がっと鈍い音と、手のひらに鈍い痛み。はっとして顔を上げるとわたしの手のひらが男の頬にクリーンヒットしていて、あ、やば。男の目に赤い髪がかかってその表情はよくわからない、けれどさーっと体中から血の気が引くのがわかった。

「あっ、ご、ごめんなさ…」

あれ、なんでわたしが謝ってるんだろう。むしろ謝られる側であろうに、なぜか反射的に謝ってしまった。それきり言葉を発することも動くことも出来ず、体は固まったまま、男も動かない、気まずい、こわい、なにこれどうなるのと思っていたら、

「…覚えてないんだな」

と、突然赤髪男の雰囲気が柔らかくなった気がした。その言葉に、え、と思うより早く、呆気なく手首が解放されて、くっきりと赤い手形が残ったそこはそのままに、呆然と男を見つめる。ぱんぱんとスーツを二、三回叩いて男は居住まいを正す。そしてこっちをまっすぐ見据えて、風に揺れる髪から見えたのは、その目は、ううんきっとちがう、だって、そんなはずない、

「…会えてよかった」

突然そう言うと男は踵を返した。わたしはただそこに立ち尽くしたまま、鞄も足元で中身をぶちまけたまま、ただ時々吹いてくる風に髪が舞うだけ。男は一度も振り返らず姿を消した。……なんだったんだ。




「てことがあったんだ」
「はあ、そりゃご苦労さんだったな」
「…ちょっと真面目に聞いてよ」
「真面目に聞いてるだろ」
「どこが。煙草ふかしてスマホいじってるくせに」
「お前こそ真面目に仕事しろよ。そんな与太話してる暇があるのか」
「与太話ってなに!本当なんだよ!すっっごくこわかったんだよ!死ぬかと思ったんだよ!第一鉢屋も仕事してないじゃん!」

私は誰かと違って要領いいから適度に休憩取っても平気なんだよ、なんて皮肉と煙を吐き出すのは同僚の鉢屋、昨日の出来事を報告したら興味なさそうに、というか実際に興味がないのだろう、一笑に付された。むかつく、それが怖い思いした女子に対する態度か、ていうか昨日の男にも言える、最近の若い男はなんなの、女子を丁重に扱うとかそういう気持ちはないの?鉢屋の皮肉より昨日の男は本当に許せないレベルだったけど、というか、最後の何だったんだろう。「覚えてないんだな」って、ねえ、わたしには全く身に覚えないけれど、名前を知っていたと言うことはどこかであの人と面識があったのかな、いやでもあんな人ほんとうに知り合いになった記憶がない、それにもし仮に知り合いだったとして、普通自分のこと覚えてなかったら怒ったりするものではないのか?昨日の流れならますます腕捻られるくらいあってもいいだろうに、いやあっちゃこまるが、いやいやそうじゃなくて大事なのはあの人が「覚えてないのか」ってなんだか安心したように見えたことだ。一体なんなんだろう、覚えてないのかって、でも会えてよかったとも言ってなかった?わたしのことは知ってるぽかったし、てことはやっぱりどこかで出会っててわたしが忘れてる説が濃厚なのかな?うーん、真相はわからないし、でももうあの人とは二度と会いたくないってことだけは言える、ああ、まだ手が痛い気がする、って、ねえ、鉢屋、君が今持ってる名簿にわたしの名前のってなかった?

「ねえそれなんの名簿?」
「あ?これか?他社と共同開発するって話あっただろ。目通してないのか」
「あ…あー…忘れてた」

呆れた顔の鉢屋から名簿を受け取る。仕方ないでしょ本当は昨日の夜、家で確認するつもりだったんだよ。それがあの事件のせいでもう確認なんてする気にもならなかったんだよ察して。
うん、今回のプロジェクトは他業種の人と協働するやつね。たしかに相手方の名前くらい知っとかないと失礼だ。えーと、なになに…へえ、兵庫に本社がある会社なんだね。水産系の会社っていうのは知ってた。で、社員さんのお名前は…、ん、ん、ん?

「えーっ…と、へ、さき?まる?」

へさきまるて。変な名前…いやいや読み方違うのかも。名前の読み方って難しいからなあ。さて他の人は…おにぐもまる、よしまる?…、この会社◯◯丸って名前の人多いな、船の名前みたい、水産系の会社だから?いやいや名前が船っぽいからって採用しないか。偶然かなあ。まあなんでもいいんだけど、この人は結局なんて読むんだろう、へさきまる、ではないと思うんだけど。

「週明けに顔合わせだぞ」
「うん、わかった」
「忘れるなよ」
「わすれないよ」
「忘れるなよ」
「忘れないってば」
「忘れるなよ」
「しつこいな!忘れないってば!」
「どうだか。昨日の男は忘れてたんだろ」

何だかんだちゃんと話はきいてたらしい。知り合いなのかなって言葉も拾ってたらしく、図星を突かれてぐっと言葉に詰まる。いや知り合いじゃないかもしれないじゃん、身に覚えないし、夜道で突然声かけて迫ってくるなんて、知り合いどころかなんならむしろストーカーだよ。なんてやってる間に鉢屋はわたしの手に油性ペンで「週明け顔合わせ」と書き込んでいた。おいなにすんだ。


何が何だか全くわからない。もしかするとこれは夢なのかも知らない、でもそれにしては掴まれていた手首と、頬に当たった手のひらが痛い、ああ、何が何だか。
揺れる髪の奥に見えた、まるで、そうまるで、なにか愛おしいものを見るような目を思い出して、知らずまた震えが走った。



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