初恋1
漢字地獄は毎日続いた。呪縛は彼女の体に染みついて離れない。毎日時間を選ばず叩き込まれる快楽は、人間が許容できる刺激ではなかった。痛みと快楽、どっちつかずの強烈な刺激を昼夜問わず与えられ、意識を飛ばせば薬で無理矢理覚醒させられる。殆ど寝る間も無く、脳を灼くほどの刺激を常に注ぎ込まれる。
主人に見捨てられたという絶望が、彼女の心を砕いていたのも大きな要因だった。拠り処はなく、帰る場所もない。そう気付いた彼女は、この呪いに耐える意味も遂に見失ってしまったようだった。そうして、早々に壊れた彼女の心は、既に誰にも開かれず、また開くこともできなくなっていた。
2年間、たった一人で暗い牢の中呪いを受け続けた彼女にはもう、救いの手も遅すぎた。仮に彼が仇を打ち、彼女を助け出したとしても、既に手遅れだっただろう。
生まれてこなければよかった。
そればかりが頭を占める。こんなことを思うのは久しぶりだと、そこまで思ってふと気がついた。久しぶりということは、以前にも同じように思ったことがあったということだ。はてそれはいつのことだったかーーーー
彼女の頭に浮かんだのは、暴力とどす黒い欲望の支配する世界。暗く冷たい部屋、殴られ、犯され、およそまともな人間がいない中、そうした連中の娯楽として生かされながら死んでいた自分。全ての自由を奪われて、日々好き勝手に蹂躙される。体も心もすぐに限界を迎え、自分が生まれてきたことを、そしてこの世界を呪った。
死という逃げ道を今か今かと待っていたとき、それを引き取ったのが彼だった。傷つき薄汚れた体を清め、手当てし、温かな食事と寝床をくれた。字と剣、そして人の暖かさを教えてくれた。初めは視線を交わすことすらできなかったが、体の成長と共に、彼の尽力のおかげで彼女の心は少しずつ健常なものに戻っていった。そして、ついには心を通わせることまでできるようになり、救われてから8度目の彼女の誕生日を迎えたその夜、愛しい人と結ばれることの意味を、彼女はようやく知ったのだった。
幸せだった。決して安寧な生活ではなかったが、生まれてきた意味を感じていた。命に変えても守る、と。お互いの心を信じて疑わなかった。
けれど、そうではなかった。あの日、笑う男の口から告げられた言葉に彼女の唯一の縁は砕け散った。
「奴は取引に応じないそうだ」
そう告げる男の声は随分遠くから聞こえるようだった。彼女がその言葉を咀嚼し、理解するまで、男は興味深そうに見守っていた。その顔が絶望に変わる瞬間を見届けようと。そして、その瞬間は訪れる。
わかっていたはずだ。みすみすここに来れば誰も無事では済まない。彼が周りの者を危険に晒すような真似をするはずがない。国と民を何より大切にする彼が、1人の女と引き換えに自国を犠牲にするなど、そんなことがあるはずがないのに。
けれど。
心のどこかで信じていた。
必ず助けにきてくれると。
救ってくれるはずだと。
彼が自分を見捨てるはずがない、と。
ぽとり。一粒の滴が落ちる。
それを見た男の顔が狂喜に歪む。求めていた姿を目の当たりにして、もう我慢などする気もなく、すぐさま引き倒されて体を拓かれる。いつもなら鎖を鳴らして抵抗するが、今回は違った。彼女の腕は一瞬反射のように力を込めたが、しかしすぐに投げ出された。それに気づいた男が、ちら、と彼女の顔を見やる。
私は何を自惚れていたんだろう。
笑う男の声が頭に響く。
私は必要とされていない。
彼は私を見捨てた。
それが、私たちの全て。
繰り返される苛烈な行為の中で、終わりが見えないことは多々あった。意識を飛ばしても無理やり覚醒させられ、時間の感覚がなくなってもなお弄ばれた。快楽なんかとっくに通り越して、絶えず脳を焼く刺激に知らず知らず懇願が漏れ出た。
「だれ、か…たす、け…」
溢れた言葉に、跨り蹂躙する男が顔を近づけて息荒く笑う。
「誰がお前を助けるんだ?」
「あ、…ぁあ」
「あの男にも必要とされていないのに」
必要と、されていない。
いらないと、いなくていいと。
わたしの居場所も、自力で帰る力も、もう、
「俺のものになれ」
「ぅあ、…ゃ、ああ」
「俺の子を孕めば、居場所を作ってやれる」
「ひ、ぃぎっ、」
腹の奥が熱い。炎のように熱い体が離れる。ようやく、解放された。今度こそ落ちゆく意識の中で、男が何事か呟いた言葉は、終ぞ耳には届かなかった。
だから、蓋をしたのだ。覚えているにはあまりに優しく、辛い記憶だから。縋ってしまいそうになる。助けを求めそうになる。そしてきっと、思い出すたびにその記憶の中で笑う彼が、自分を見捨てたという現実を突きつけられることになる。また、あの絶望を繰り返すのは耐えられない。だからもう二度と思い出すことのないように、自分の記憶からも消し去った。そのはずだったのに。
彼女の濁った瞳から涙が溢れる。傍目にはわからないが、流れるその雫の意味が先までのそれとは違うことを、彼女を支配する男は目敏く察知した。喘ぎ以外の言葉を発しようと緩んだ唇に無骨な指を突っ込む。思い出す必要はない。思い出したとしても今更、今更何ができるというのか。それでも彼女はそちらに手を伸ばす。正常な意識などないはずだ、この男が誰なのかもわかっていない。だがそれでも鎖に繋がれた手を伸ばし、触れようと、確かめようとする。それを見て、拘束された男の目からも涙が溢れた。
何度記憶を消しても、虚な瞳のまま手を伸ばす。無意識だろうが紡がれる名前に、涙を零して。記憶はなくとも、体が覚えているのだ。
虚だった瞳に光が宿る。瞬きを一つしてから、その目が大きく見開かれた。
地獄の中で、彼女の心が軋み悲鳴を上げるのをただひたすらに見守る。身体的な苦痛と、精神的な苦痛。いくら彼女が屈強な精神をもっていたとしても、人間の意識を揺るがすような苦痛を息つく間もなく与え続ければいつかは壊れるだろう。壊れて、砕けた彼女の心を自分だけに向けるのは簡単だ。愛情でも恐怖でも憎悪でも何でもよかった。彼女の中に残るものが自分だけになるならば。
「ころして」
初めて彼女が口にした願い。全てを諦めて、選んだ未来。勇猛果敢に剣を振り回していた時からは考えられないほど、虚な願い。
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