5

光射す水の中で、ケルピーと額を付き合わせている。まるで人魚だ。
不意にこちらを見た彼女は、ケルピーの髪を一撫ですると水面に出てきた。ぱしゃりと水音。濡れた髪も服もそのままに、床の上に置きっぱなしだった杖を拾い上げる。

「…思い出す方法があること、知ってる?」

きらりと日向の杖が光る。反対呪文があるとは聞いたことがないが、彼女なら知っていてもおかしくはない。

「遡れる記憶には限界があるけれど、不可能じゃないの」

そこまで言いかけて、日向の眦から一筋の雫が溢れた。朝の日の光に照らされ、宝石のようなそれは静かに頬を伝い落ちていく。何も言えずにいる僕に、日向はふっと口元に笑みを浮かべた。

「あなたが好きだった」

濡れた掌を握りしめる。けれどするりといとも簡単に解けてしまう。ブルーのワンピースを身体に貼り付けたまま、日向は静かに踵を返した。手を伸ばそうとしてもうまく動かない。こちらを振り向くことなく彼女がまっすぐ向かったのは天井近くまで届くガラス窓。

「信じてた」
「日向」
「ずっと。あなたを」

背を向けたまま光の方を見つめる日向、神々しさを纏ったまま彼女は続けた。

あの夜、悪い夢だと思った、あなたがそんなことするわけないって自分の愚かしさを呪った。ボガートが変身した時もそう、あなたを傷つけたと本当に悲しくなった。たった1人、わたしの大切な人。そんな人になんてことをって、そう思ったの。あなたがいなくなったら、わたしは本当にひとりぼっちになってしまう。だからあなたを疑うなんてできるはずなかったの。でもね、そのあなたですら、わたしの味方ではなかったのね。わたしはもとから一人ぼっちだった、そうでしょう、ニュート?

振り返った彼女は自嘲するように笑う。

優しくしてくれたのも、全部嘘なの。オレンジの花の指輪も、フィリアへ旅行した記憶も。あなたが私の記憶を作り変えてそう思い込ませているだけなの。酷い記憶は消し去って都合のいい夢だけを残している。そう考えたらもう何も信じられなくなるの。わたしから何が無くなって、何が残っているのか、知っているのはあなただけ。でももう返してくれなくていいよ。わたしはそれが本当にわたしのものなのかどうかわからないから。
あなたを好きだっていう気持ちも、あなたに作られたものなのかもしれない。わたしが見てきたもの、感じてきたもの全て。それならもう、その全てを手放すしかない、そうでしょう?

静かに日向が杖を翳した。真っ直ぐ、こちらに向けられる。

わからない。家族も友達も、わたしが大切だと思っている人たちは、本当にわたしの大切な人なのか。わたしは誰なのか、あなたが誰なのか。
だから、ねえ、お願い。どうかもう消さないで。わたしを、今ここにいるわたしを消さないで。お願い。お願いニュート。記憶の中のあなたが、本当にわたしの友人なら、どうか、もうこれ以上わたしから大事なものを奪わないで。

涙を零しながら無表情で告げる日向。向けられた杖の先、震えているのが離れていてもわかる。

ぼんやりと、スイスの花畑に行ったことを思い出す。オレンジの花の指輪を、嬉しそうに受け取った日向の顔。嘘偽りなく僕を信じていた、優しくて無知な彼女。
もう一度記憶を消すことは簡単にできる。反対呪文の記憶も、今度はそれごと取り除いてしまえばいい。そうすればもうこんなことは起こらない。日向はまた隣で笑ってくれる。僕だけの日向になる。
静かに杖に手を伸ばす。日向の肩が僅かに震えた。


夢ならば。
大丈夫。全部悪い夢だ。目が覚めたら、いつもと変わらない毎日が待っているから、だから、安心してお眠り。

ホルダーの奥から、転がり落ちてきた指輪。しゅるりと糸が解けるように形を変えて、霞んだ色の花になったそれは、最後は砂になって消えた。


おやすみ、日向、良い夢を。

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