光陰

日の光が部屋の中を暖かく照らす。昨夜の雷雨が嘘のように、静寂と澄んだ空気が満ちている。目線を落とせば、隣の存在は未だ夢の中で、静かな寝息を立てている。

「日向」

呼びかけてみたが起きる気配はない。髪を掬っても頬を撫でても、彼女は目を閉じたままだった。無防備な寝顔を見下ろしながら昨日のメモリを再生する。
まさに夢のようだった。自分の思いを自覚してからずっと願っていたことが実現されたのだ。晒された肌、あられもない声、自分とは異なる体温。日向と心も体も繋がっていると感じることができた。アンドロイドと人間の境界がなくなり、2人が1つになれたと、確かにそう思えた。
人間が本来の目的を他所において、その行為を行う理由が理解できた気がする。


幸せを噛み締めながら、ベッドから降りると、脱ぎ散らかされた服が目に入った。皺くちゃになったそれらを拾い集めて、シーツと一緒に洗濯機に入れる。
朝食でも作っておこうか、と思うが、まだ彼女の寝顔を堪能しておきたいという気持ちもあり、寝室に戻った。ベッドに腰掛けたまま思考回路を巡らせる。起きたらどんな反応をするだろう。怒る?驚く?戸惑う?それぞれのパターンをシミュレーションしてみても、自分の頬が緩むことは抑えられない。昨日のメモリを読み込むたびに、幸福な気持ちになる。波のように次から次へと溢れてくる思いは行動に変わり、髪に触れ、頬を撫で、けれどまだ足りなくてキスを落とす。数回、数十回と繰り返しているうちにぴくりと彼女の瞼が震えた。

「…ん」
「日向」

見下ろせば日向がぼんやりした目でこちらを見上げていた。おはようございますと挨拶すれば日向はおはよう…?と疑問符をつけながら返してくる。きょろきょろと辺りを見回し、首を傾げている。その様子を見守りながら、ふと彼女の視線が時計に止まった。瞬間、はっと彼女の顔色が変わる。

「遅刻ッ…ッ!?」

勢いよく体を起こそうとした日向は、けれど次の瞬間にはまたベッドに沈んだ。すぐ声をかけて呻いている彼女の体を支える。

「大丈夫ですか」
「ッ、コ、ナー?」
「今日は休みですよ、まだ眠っていても構いません」
「休み…?」
「休暇を申請しておきました。あなたも僕も」
「なんで、そんな…」
「その様子では出勤などできないでしょう」

そっと腰に手を添える。日向はびくりと体を跳ねさせてこちらを見上げた。ぱちぱちと瞬きを繰り返し、徐々に表情が変わっていく。昨夜のことを思い出したのだろう。みるみる顔を赤く染めてしまった。微笑みを向けるとぼすと枕に顔を埋める。小さく悪態を吐く声が聞こえた。
酷使された体は今日一日使い物にならないだろう。日向はぐったりと体をベッドに預けた。

「僕の責任ですから。今日はあなたの身の回りの世話をさせていただきます」
「…」

日向はどこか気まずそうに、けれど他に為す術もなく、長い溜息をついた。






「コナー、やっぱりあなたは午後から出勤して」

彼女が遅めの朝食を食べる間、僕は甲斐甲斐しく家事をこなしていた。黙って見つめていた日向は、僕がシーツを干して部屋に戻るなりそう告げた。洗濯籠を置いて彼女の前に立つ。

「これだけやってくれればもう大丈夫。ありがとう」
「けれどまだ体の痛みがあるでしょう。責任を取らせてください」
「大分良くなったよ。大丈夫だって」

横になっていたソファから何とか体を起こした彼女はネクタイ貸してと手を差し出した。ハンガーラックに掛けておいたそれを持ってくると、しゃがんでと言われ大人しく従う。ネクタイを持った彼女が首元に手を回すと、ふっと柔らかな香りが鼻腔を擽った。するすると慣れた手つきでネクタイを結び、うん、と一つ頷いて僕を見上げる。

「稼働時間は問題ないよね」
「日向、僕は」
「そうだ、帰りにパンと苺ジャム、あとバターを買ってきてくれる?」
「…、帰り?」

一瞬言葉に詰まる。

「仕事が終わったら。署から一番近いスーパーでいいよ」
「…ここに帰ってきて、いいのですか?」
「うん。…だからお願いね」

単純だと自分でも思う。そして同時に彼女が結構な策士であるということも。滅多にない、彼女からお願い、と言われただけで従いたくなってしまう。彼女のために外出する、という出勤するための口実を作られた僕は、彼女の容態を気にしながらも、仕方なくタクシーを呼ぶことになったのだった。
正午より少し前、到着したタクシーに乗り込む僕を見送る日向は遠慮がちに手を振った。まるで新婚の夫婦のようだと、どこか照れ臭い気持ちを隠しながら手を振り返した僕は、残された彼女が1人残された部屋で陰鬱な表情をしていることなど知る由もなかった。

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