ふたりでできる世界
みょうじなまえは苛ついていた。その理由は単純明快で、弧月の個人ランクの順位が停滞していることと、学校の定期試験での手応えのなさ、そして何よりもこの夏の暑さだ。もっとも原因といえるのは暑さによって食欲不振になり、栄養不足に陥っているということであったが、みょうじ本人はそれには気付いていない、というよりもそこまで頭を回す気力もないようだった。
ときに荒船哲司は考える。みょうじなまえという人物は荒船のように気を許した相手には感情を隠すことをしないのだと。みょうじは人並みに常識を持ち合わせた人物だということは、荒船は短くも浅くもない付き合いでわかりきっている。ゆえに、みょうじがたとえば風間だったり太刀川だったりといった年上や、木虎や雨取などの後輩にあたる相手と、荒船に対する態度が違っているのがとてもよくわかる。態度といっても、言葉遣いや物の扱いが乱暴になるわけではない。ただそのまとう空気がピリピリと人の言葉を寄せ付けなくなる。ある意味無防備にも見えるような態度を荒船に晒すのだ。
「ずいぶん荒れてんな」
「ふふ、わかる?」
口元に微笑みを携えて小首を傾げる言葉に棘はない。しかし、その目と発する空気が張り詰めており、またいつでも荒船を刺せるような余裕も含んでいる、ひどくアンバランスな雰囲気を醸し出していた。
よく見ればみょうじは少し痩せたように見える。やつれた、と言った方が正しいのかもしれない。
「荒船くん、つかれた」
みょうじは突然表情を消すと荒船隊の作戦室のソファーに頭を預けて横になり、そうつぶやいた。
「甘いものが食べたい」
普段ならこんな言い方をしないだろうと考えるまでもなくわかるほどそっけない。
荒 船はふっと息を吐き出し、テーブルの上にあったチョコレートを手に取った。銀紙に包まれているそれをみょうじの手元に置いてやる。するとみょうじはちらりと荒船を見上げ、ぱちぱちとまばたきを2回すると、緩慢な手つきで銀紙を取り除き溶けかけたチョコレートを口に含んだ。
本来ならイライラしているときには血糖値を上げる前に野菜やたんぱく質の類を食べさせるべきなのだが、荒船が言ったところで今の状態のみょうじは動こうとしないだろう。
銀紙をテーブルの上に放り投げるように置き、みょうじはソファーから身を起こした。ちらりと荒船を見ると何か言いたそうにしている。するとそこに半崎が入ってきた。
「おつかれさまです……あれ、みょうじさん」
ぱちり、半崎が驚きを滲ませた目でみょうじを見ると、みょうじは笑って挨拶を返す。
「半崎くん、おつかれさまー。お邪魔しててごめんね、もう帰るから」
そう言って立ち上がったみょうじに続いて荒船も席を立つ。
「荒船くんも帰るの?」
「ああ。特に用もないしな」
「じゃあ半崎くん、おつかれさま。お邪魔しました」
ひらりと愛想よく手を振って部屋を出たみょうじの後ろ姿から半崎に視線を移し、荒船は今度の防衛任務の確認をしてからみょうじを追った。
「おい、みょうじ」
「何?」
「イライラしてんな」
「悪い?」
「別に」
「そっか」
満足げな笑みで、しかし張りつめた空気を醸し出してみょうじは荒船の先を歩く。その距離は単なるクラスメイトのもので、それだけがいつも通りだった。
みょうじの足は迷うことなく進む。荒船は訊くまでもなく、彼女がどこへ行こうとしているのかを理解していた。
二人が着いたのは普段から人気のない廊下の隅だった。取るに足らない会話、親しくない人物の耳には入れたくない愚痴、人には言えない秘密を打ち明けること。それらはすべてこの空間があってこそ荒船とみょうじの間に成り立っているものであり、二人の友情のためには欠かせない場所だった。
人の気配というものが全くないにもかかわらず、塵ひとつ見当たらない廊下にみょうじは座り込む。荒船は膝を抱えて座った制服姿の女の正面に立ち、その後頭部を見下ろしながら内心で深くため息をついた。
みょうじのスカートがめくれ、通常であればさらされることのない太もも部分が荒船の視界に入る。荒船は眉をしかめた。何をやっているのだというあきれこそあるものの、欲情だなんてとてもじゃないが湧いてこない。それは疲れ切ったみょうじが発する刺すような冷たい空気がそうさせているのだろうか。
「おい」
俯いたままのみょうじから反応はない。
「みょうじ」
「……荒船くん」
ようやく顔を上げたかと思えば、みょうじは手の仕草で荒船にしゃがむように示してくる。荒船は今度こそ隠さずにため息を漏らし、仕方なしに膝を折った。
否応なしに顔が近付き、近距離で視線が交錯する。みょうじの両腕が荒船の首に回された。
「荒船くん」
みょうじの声を合図に、どちらからともなく目を閉じ、唇を重ねた。みょうじの空気に触発されたように荒船の空気はピリピリと張りつめ、機嫌は傾いていく。
噛みつくように苛立ちをぶつけ合うキスをする。
荒船とみょうじがストレスを発散する方法として選ぶ頻度が高いのは、積もった鬱憤を欲に昇華させるというものであった。みょうじ曰く、別に心理学的な昇華じゃなくたって変えられるでしょ、私たちの場合は化学みたいだけどね、だそうだ。確かにその通りだと荒船は思う。
ごまかすように感情を欲にすり替え、相手にぶつけることで発散する。ひどく非効率的で理性的とは言い難い。
「みょうじ」
「んっ……なあに、荒船くん」
荒船の鋭い視線がみょうじを貫いた。濡れた唇で問いかけるみょうじを無視し、荒船はその首筋へと歯を立てる。
ぐっと空気を飲み込み痛みと驚きをこらえようとするみょうじの気配が伝わってきた。しかし荒船は一度力を弱めるものの、すぐにじわじわと薄い皮膚に歯を沈めていく。
ひどく非効率的で理性的とは言い難い。確かにそうだ。しかし、荒船もみょうじも決してこのような行為を学校であったり自宅であったりという場所では行わない。二人が残した薄暗い秘密と後ろめたさと日常を吸い込むこの場所でしか、このような発散方法は行わない。それは体裁や常識を守る質の荒船とみょうじがこれ以上をできない、しないためのストッパーでもあった。だから理性的ではないにしろ、少なくとも合理的ではあった。
「荒船くん、歯型残っちゃったら……」
「それはそれでおもしろいけどな、別にみょうじは心配してねぇだろ」
「……ふふ、まあ、ね」
歯型が残った後のことなど、みょうじはそもそも考えていないだろう。荒船が跡を残すような真似をしないということは分かりきっていた。
「……ねぇ、荒船くん」
一瞬の沈黙の後、少しばかり雰囲気が柔らかくなったみょうじの目が眇められる。
「キス、しない?」
今までの弾くような鋭さを解き、底に残った小さな小さなしこりと悲しみと切なさの化合物をのぞかせたみょうじが微かに笑う。小首を傾げて荒船を窺う台詞はまるで恋人同士のようだ。
荒船はみょうじの言葉で口元に微笑みの形をつくり、返事の代わりにみょうじを抱き寄せて唇を重ねた。