砂糖もミルクもいらなかった

 みょうじなまえの世界を構成するのは迅悠一、ただその人だけだった。
 なまえも迅も家族を亡くしている。なまえは兄を、迅は母親を。だからというわけではないが、なまえは幼なじみで恋人でもある迅とはずっと一緒にいるものだと思っていた。なまえと迅の見ている方向は同じで、分かれ道なんてないと信じきっていた。しかし、その日は唐突にやってくる。



 私の一人暮らしの家で悠一と二人、ソファーに並んで座り話しているときだった。悠一が今まで話していた話題を不自然な形で終わらせ、おもむろに口を開いた。柔らかな声色で、やさしい目で、私と向かい合う。
「なまえ、もうおしまいにしようか」
 私の髪をやさしく梳いていた手を止めて、悠一は困ったような表情で微笑んだ。
「おしまい?」
「そ。もう、別れよう、おれたち」
 私の広くないワンルームの部屋で悠一の落ち着いた声は嫌でも耳に入る。言っていることと口調の噛み合わなさに違和感を覚えながら、混乱した頭に最初に浮かんだ言葉は「どうして?」だった。
 私の疑問はそのまま唇からこぼれ出る。そうすると悠一は私の頭から手を離し、口を開いた。
「おれはなまえのお兄さんじゃないから」
 ひどくやさしい笑みをたたえて悠一は私を突き放そうとする。そんな、
「悠一のことお兄ちゃんだなんて思ってないよ。思ってたらキスとか、できないじゃない」
「……おれが言いたいのはさ、なまえ。なまえがおれをお兄さんに重ねてるってことだよ」
「私、悠一のことそんな風に思ったことないよ……?」
「……なまえがつらい思いをする前に、ちゃんと自覚した方がいい」
「そんなこと言われても……ねぇ、悠一。一回落ち着こう? コーヒー淹れるよ」
 私は立ち上がってキッチンに行き、コーヒーメーカーに粉と水をセットする。その間悠一はずっと無言だった。嫌な沈黙が続いたけど、私はそれを打破することができない。
「悠一、砂糖とミルク、いる?」
 ようやくできあがったコーヒーを二つのマグカップに注ぎ、悠一がいつも使っている方を持ち上げながら尋ねる。
「いや、ブラックでいい」
「ん。はいこれ」
「ありがと」
 目を伏せて口元だけで笑いマグカップを受け取った悠一は、とても脆そうに見えた。
「悠一? ねぇ、大丈夫?」
「……なまえはさ、おれが壊れたと思ってるの?」
「そんなこと、思ってないよ」
 少しだけ、返事を返すことを戸惑った。悠一は私に、亡くした母親を重ねているのではないかと思っていたから。
「そっか」 
「そうだよ」
 悠一は相変わらず私に視線を合わせず、真っ暗なマグカップの底を覗こうとしているみたいにじっとしている。
 微笑みの形を作っている唇はいつもであれば柔らかな雰囲気を漂わせるはずなのに、今はひどく寂しげに見えた。
「……悠一?」
 不安になって名前を呼ぶと、彼はふっと目を細めて私を見た。
「それ訊くようになったの、いつからだったろうな」
「え?」
「おれはいつもブラックだったよ」
「コーヒーのこと? ああ、そういえばいつもブラックだったよね」
 それがどうしたのだろう、と悠一を見やる。懐かしそうに私の目を見つめる悠一は寂寥感だけでは覆い尽くせないようなやさしい表情をしていた。
「なまえ、やっぱり別れよう」
「え……。ねぇ、説明してよ。今はコーヒーのことなんて関係ないでしょ?」
「なまえはおれには訊かなかったよな」
 悠一はふんわりと微笑みながらも私を無視して話を続けた。
 悠一が私へ向けて紡ぐ言葉はいつもほんのり温かくて柔らかいし、今もそれは変わらない。不思議なほど、切なくなるほど、温かくて、柔らかい。
 何が、と問いかけようと私が口を開きかけると、悠一は先回りして言った。
「前は何も訊かないでブラックコーヒー淹れてくれてたのに、お兄さんが亡くなってから砂糖とミルクいるかって訊くようになったんだよ、なまえは」
 マグカップを片手に持ったままだった悠一はサイドテーブルにそれを置き、空いた手で私の頭を撫で、その胸元に引き寄せた。
 私は悠一にされるがまま抱きしめられる。
「お兄さんにはいつも、砂糖とミルクはいるかって訊いてたよな」
「悠一?」
「家族を重ねてるのはおれじゃなくてお前だよ」
 今まで言ってあげられなくてごめん。好きだよ、なまえ。
 悠一の声が小さく耳元に落ちた。ひどくやさしく愛おしげに響いた声色に、別れようという言葉は気のせいだったかのように錯覚する。
「だから、別れよう」
 私は抱き寄せられているから、悠一の顔はどうやっても見ることができない。ひたすらにじっと息を殺して目を閉じる。ゆっくりと吐き出した息は緩く鼓膜を震わせて部屋の中で掻き消える。
 ただ立ち尽くすことしかできない私の胸に、立ち上ったコーヒーの香りだけが深く突き刺さった。