無音のわがまま

「ね、見て。このねこかわいい」
 頭を右へ倒し、研磨の肩に乗せつつスマホの画面を傾けてみせた。
「ほんとだ」
 彼は自身のスマホの液晶画面をなぞる手を止め、画像を見るとほんのりと笑い、再び手元へと視線を落とす。頭を戻すときに一瞬見えた画面には、どこか緩い動物たちのイラストが動いている。最近始めてみたという動物の絵を消すのだか重ねるのだかするパズルゲームを進めているのだろう。
 ふたりでもたれかかってもじゅうぶん余白がある低反発クッションに、身じろぎをすれば触れるほどの距離で肩を並べ、それぞれ好きなことをしながら時折ぽつりぽつりと他愛ない会話を重ねていく。お互いに仕事の合間を縫ってメッセージのやり取りは行っていたが、直接会うのも休日前に研磨の家に遊びに来るのも久しぶりだった。
 新しくピアスを買ったこと。インスタでお洒落なカフェを見つけたこと。たまに聴くアーティストのMVが素敵だったこと。文字で組み立てて送るのは躊躇してしまうようなとりとめもない話も、顔を合わせればずっと伝えたかったことのように言葉になって流れ出た。研磨はゲームに集中しているようでいて存外、しっかりと耳を傾けていて相槌を打ったり聞き返したりしてくれる。
 研磨のスマホから軽快なBGMが控えめに響いているのを聞くともなしに聞きながらタイムラインに流れるおすすめをぼんやりとスクロールしていると、おぼろげなわだかまりを覚えた。
 穏やかさよりも甘い空気が恋しくなってくる。ただ、もっと近づきたいと思うのになんとなく素直に甘えたくない気分で、歯がゆさを覚えた。
 再び研磨の肩に頭を乗せ、そのまま液晶画面に視線をやったままの彼の顔を見上げる。ぐっと顎を持ち上げて彼の整ったフェイスラインにくちづけを落とそうしたが、不透明なくすぶりがその先を思いとどまらせた。
 変わりに額を研磨の首筋にすり寄せ、腕に絡みつく。研磨からはお風呂上がりの匂いがした。私よりさっぱりした香りのシャンプーの匂い。
「研磨」
 しっとりとした生地のパーカーはオーバーサイズのつくりで、かんたんに袖口から侵入できる。華奢に見えて骨張った手首の内側を指の腹でそろりとなでれば、研磨はこちらを一瞥するとスマホを伏せて置いた。体の向きを変え、じっとこちらを見つめてくる。
「ねぇ、どうしたいの?」
「……ん」
 返事にならない声を出し、ほんの少しだけ彼に体重を預ける。
 触れられたいし触れたい。求めたいし求められたい。薄っすらと、でも確かに染みついてしまった寂寞を取り払ってしまいたい。
 私の心情をまちがいなく汲み取ったであろう彼が、甘やかすような声色で囁く。
「なまえ。いい?」  
 それはどこかおもしろがるような、それでいてやはり甘い色を乗せた声だった。
 研磨の顔がゆっくりと近づいてくる。答えなんてわかりきっているから、きっと彼は私がそのまま素直に目を閉じて許容すると思っている。
「……私、キスしていいって、言ってない」
 戯れにそう返してみれば、思いの外すねたような声色で響いた。くらくらするくらい近く、触れるには遠すぎる距離で視線が絡み、伏し目がちにこちらを見下ろす彼の長い前髪が頬を掠める。
 わずかな不安とときめきが渾然となって吐息が震えた。しかし、こちらの緊張とは対照的に、彼は蠱惑的に「ざんねん」とかすかな笑みを浮かべるだけだった。
「口はダメ?」
「……だめ」
 だめなんてことはなかった。むしろ、今すぐにでも触れたかった。なのに。
「ん、わかった」
 研磨は物わかりのいいふりをして、あっさりと顔を離す。かと思うと、指先で私の横髪を耳にかけ、さらされたそこに口付けた。
 不意打ちで触れた柔らかさに思わず息を飲む。くつりと喉の奥で彼が笑った気配がした。
「かーわいい」
 からかいまじりの掠れた声が落とされたかと思うと、今度は首筋へさらりとくちびるが触れた。一度離れると、今度は柔くしっとりと吸いつかれる。それは間違いなく性感を煽るくちづけだった。
 接した肌の部分に意識を向けていれば、つややかなシルク素材のパジャマの袖口から彼の指先がなめらかに差し込まれ、手首をなぞられる。反射的に跳ねた体はごまかせないまま、咄嗟にうわずった声がもれないように息を詰めた。
「……っけんま」
 焦らすような行為を咎めたつもりの声は思いの外、甘えるような色で響いた。しかし、研磨は触れることをやめてはくれない。
「ねぇ、けんま」
 呼びかけに答える代わりに、そそのかすような、試すような視線に射貫かれた。手つきはどこまでもやさしいのに、研磨は無言でどうするのかと訴えかけてくる。
 もっと触れていたい。近づきたい。いつもならされるがままでもいいのに、いまはそれをしたくない。でも研磨から触れられるのは心地いい。私から触れたい。
 相反する感情を持て余しながら、手首をなでていた彼の指先から逃れてその肩を淡い力で押す。
 こちらの意図を正確に読み取った研磨は静かに離れ、再びクッションへと背を預けた。代わりに私が研磨の前で膝立ちになり、クッションにもたれかかる黒と金の髪を見下ろす。
 片腕を伸ばしたままクッションに手をつくと、しゃりしゃりと中身が音を立てて形を変え、指先が黒い布地に埋まっていく。わずかな緊張と高揚から見るともなしに指が沈むところを見届けて、どくどくと速まった鼓動を自覚しながらようやく研磨の目を見返した。
 空いた手で研磨の伸びた前髪をさらりと後ろに流し、彼が先ほど私にしたように毛先を耳にかけてやる。
 私の仕草に目を細めた彼は、こちらをからかっているようにもこの状況をおもろしがっているようにも、熱を持て余しているようにも見えた。
 私も研磨も、吐き出す息が湿っている。
「ん、けんま」
 研磨がしたのと同じように耳にちゅっと音を立てて口づけて、そのまま首へ。くちびるで柔らかく食み、場所を変えて繰り返す。喉仏に触れれば、そこが上下したのがわかった。顎先とフェイスライン、頬に鼻先。どんどん熱はたまっていくのに、いちばん触れたい場所にはたどり着けない。
 うそだ。ほんとうはいつだって触れようと思えば触れられるのに、彼が受け入れてくれることなんて明白なのに、いまさら求めてほしいと思ってしまう。
 だめだなんて言わなければよかった。ひどくもどかしい。
 ちゅっと音を立ててくちびるの端ぎりぎりにキスを落とす。まだ彼は無言でこちらを窺っていた。
 彼の両肩に手を置いて密着していた体を離す。その顔をじっと見つめれば、されるがままだった彼の手が頬に伸びてきた。親指が私のくちびるをそっとなぞる。
 読めない表情をしながらも、その仕草も視線の熱っぽさも確かに私を誘うものだった。
 たまらなくなって彼の両頬に手を添える。潤んだまま目を見つめ、ためらいを振り切ってそのくちびるに触れようとすれば、研磨がわずかに笑みを浮かべた。
「おれ、いいって言ってないけど?」
 掠れた声が甘く揶揄する。寸前で動きを止めた私を見上げた彼の大きな手が私の手の甲を包む。言葉に反して、その目は「はやく」と訴えているようだった。
「……やだ」
 求めていた行為でも答えでもないものが返ってきたことがもどかしくて、戯れの延長だとわかっているのに泣きたくなって首を振る。耳にかけられた髪が落ちてきた。片方の手が再び伸びてきて、さらりと耳の縁をなぞりながら後ろに髪をなでつける。
「しないの?」
 彼はほんのりと意地の悪い笑みをくちびるに乗せて小首を傾げてみせる。
「ちがう。いいって言って」
 折れたくない気持ちと早く触れたいと思うもどかしさと求められたいわがままが綯い交ぜになって言葉を急かす。
「やだ」
 なにかが溢れだしそうになっているのに、それを知っている研磨はつれない返事で形ばかりの拒否を続ける。
 泣き出しそうになりながら、もう待てなくてぐっと首を伸ばして近づこうとすると、研磨はこちらに手を伸ばして両頬を包む。強くも痛くもなく、むしろ所作はやさしすぎるほどなのに、がっちりと頭が動かせないように固定されてしまう。拒絶の色はないのに動きが制限されて、焦れったさに苛まれる。
「研磨、けんま、お願い」
 名前を呼んで、潤んだ瞳のまま続きをしたいと懇請する。どこまでも見透かすような、掬い上げるような猫目と見つめ合ったままいれば、研磨はふっと笑んで空気を揺らした。
「いいとかじゃなくて、おれがしたいからする」
 頬に触れていた手が後頭部に回されたかと思うと、あっさりと体ごと研磨に引き寄せられてくちびるが触れて、離れる。そしてまたキスが落とされた。何度も、何度も。単調なようでどこまでもやさしい温度が心の奥底までじんわりと沁みていくようだった。ただくちびるが触れ合うだけなのに、ひどく満たされた心地がする。
 丁寧で慈しむようなぬくもりが施される度、徐々に体の力が抜けていく。下唇が吸われ、私よりも大きな手が背中をなでた。うっとりとキスに酔いしれていると、最後にちゅっと音を立ててくちびるが離れていく。
 研磨が額同士をこつりとくっつけて至近距離で私の目を覗き込んだ。じっと猫目を見つめ返せば、ふわりと頭を抱き寄せられた。
「ふふ。なまえのこういう感じ、めずらしいね」
 おもしろがっているようで柔らかな声が耳元に落ちてくる。
「……なにが?」
「いつもより素直じゃないとこ」
 その言葉には柔らかな笑いを含ませつつ、なだめるような手つきで背中を軽く叩かれた。
「なにかあった?」
 私があえて口にしないだけで隠してはいないことも、こんな行動を取った理由も察しているはずなのに、研磨は先回りをせずに私が吐き出すのを待っていてくれる。
 額を彼の肩にぎゅっと押しつければ、くすぐったいほどの丁寧さで頭をなでられた。
「研磨。好き」
「うん」
「……さっき、KODZUKENが好きって言ってるアカウント見た」
「うん」
「大ファンですって言ってるひともいたけど、推しとかじゃなくて、恋人になりたいって言ってひともいたの」
「うん」
「そういう層がいるのもわかってるし、普段は気にしないけど、最近会えてなかったし仕事も忙しいし疲れてて。すごく嫌だなって。見たくなかったなって思ったの」
「うん」
「研磨もファンのひとたちも悪くないし、でも疲れてるときに目に入っちゃうと、もやもやするの」
「そっか」
「そうだよ」
 ふと髪を梳いた研磨の手が離れていく。体を起こして研磨を見ると、床に投げ出された私の手を研磨が掬い上げ、指を絡めた。そして親指が手の甲を往復して、かと思うと握った手にきゅっと力が込められる。
 その温かさに心がほどかれてついほろりとこぼれた涙に、研磨がわずかに眉を下げた。情けない顔を晒してしまっている自覚はあるけれど彼から視線を外したくなくて、理知的なのにどこか熱を持った目を見つめる。
「……ねぇ、キスしていい?」
 じっとこちらを窺っていた研磨が沈黙ののち、わずかに首を傾げ、柔らかく甘い色を纏った声で紡いだ。
 欲していたものはいつだって望めば、応じれば、容易に与えられる。
「いいよ」
 問いかけが意地悪ではなく、私を甘やかすためのものだと知っている。受け入れる言葉を紡いだが、実のところ研磨に許されているのは私のほうだ。
「好き」
「うん、おれも」
 くちびるに触れる直前、密やかに心を告げれば、研磨は穏やかに微笑んで同じ気持ちを返してくれる。私は彼のやさしさに救われながら、そっと目を伏せてぬくもりを甘受した。