始まりの青

 じわりじわりと近付いてきていると思っていた季節は、存外早くやってきた。
「それでは気を付けて帰ってくださいね、さようなら」担任のそんな声をうわの空で聞きながらみょうじなまえはざわめきだした教室の窓から雲ひとつない青を見る。
 高校最後の夏が始まった。


◇  ◇  ◇


 なまえが通っている高校は所謂進学校と呼ばれており、生徒のほとんどは四年制大学か短大、もしくは専門学校などを目指している。特になまえのクラスは全員が大学志望者で、しかも一般受験をする人が大半だ。
 また、この高校は外部から講師を呼んで放課後に受験に向けての授業を行う予備校のようなことを行っている。これはボーダーに所属する生徒への配慮から始まった制度らしいと噂されているが、なまえのようにボーダーに入っておらず学校で勉強できる環境がいいという生徒にも人気だった。金額面でも手頃で、なまえは予備校には通わず夏期講習もこの制度を利用することになっている。
 今日は終業式のためその授業自体はないが、教室は開放されているためなまえは残って勉強していこうと決めていた。高校3年ともなるとさすがに夏休みの課題なんていうものは出されなかったが、英語の教員から任意でやるようにと配布されたプリントは受験対策になりそうだったためそれだけ終わらせて帰ろうとなまえは心に決める。
「なまえー、帰る?」
「私は英語のプリントだけやって帰ろうかなって思ってるよ」
 同じく校内の講習を受講している友人が帰る前に声をかけてくれたが、また今度一緒に帰ろうと断って荷物を整理してから教室を移動した。
 校内講習では高校3年生の教室とそれ以外のいくつかの空き教室を押さえてくれており、その中であれば好きな教室で自習をしていいことになっている。なまえの教室ももちろん対象ではあるが、まだクラスメイトが多く残っており集中できそうになかったため一番人気のない教室を探す。ひとつ上の階へ行くと、電気のついていない空き教室がなまえの目に入った。ここで1、2時間ほど自習をしてから帰ろうと決め、扉に手をかけてドアを開く。
 すると、そこにはすでに先着がおり、ドアのすぐ横にある電気のスイッチを押そうとしていた。
「……っ……」
 驚いてなまえが一歩後ろに引き下がると、その人物も突然なまえが来たことに息をのんだ気配がした。なまえはかろうじてこぼれそうになった声を押し込んで相手を見る。それは同じクラスの荒船哲次だった。
「あらふねくん、かあ……。人いないかと思ってたからびっくりした」
 ほっと肩の力を抜きなまえが口元を緩めれば荒船も小さく笑みを返し、明かりをつける。
「みょうじも自習か?」
「うん。ここ使って平気?」
「ああ」
 うなずき、荒船は一番前の窓際の席に着いた。なまえもドアを閉めて廊下側に近い後ろから3番目の席に腰かける。
荒船とは去年から同じクラスだったが、あまり話す機会がなく接点はクラス内では薄い方だった。そして荒船は真面目な気質であり、なまえもどちらかというと荒船と似た考え方を持っているため、自習をしに来た相手に話しかけるということはしない。教室は静寂に包まれていた。紙とペンの擦れる音、参考書をめくる音、エアコンの音。静けさがうるさく感じることがない、調和のとれた空間だった。
 なまえは英語のプリントを取り出してのんびりと解き始めながらなんとなく荒船の後ろ姿に目を向けた。参考書を右手で押さえ、シャーペンを握ったもう片方の手はせわしなく動いている。俯き加減で問題を黙々と解いている荒船の横顔は窓からの光でよく見えなかった。
 ふっと息をつき、なまえはプリントに視線を落とした。
 長く見える夏も、気を緩めていればあっという間に過ぎ去ってしまう。なまえは気持ちを切り替えるようにシャーペンを持ち直し、目の前の問題に臨んだ。