きっとすぐに遠くなるまぶしさの中で

 校内講習があるおかげで、なまえの生活リズムは夏休み期間にもかかわらずいつも通り規則正しい。
 なまえは目覚まし時計が鳴るよりも早く、窓から差し込む光の明るさで目が覚めた。時刻は午前6時前。講習は9時からだったが、なまえはできる日は開始1時間前には教室に着いて自習をするようにしているため、早すぎるということはなかった。あくびをかみ殺してベッドから抜け出し、顔を洗ってから制服に着替えた。朝食をとりながら作り置いていたおかずで昼用の弁当を詰め、なまえは7時前には家を出た。
 夏休みの電車は、ふだんより少し空いているように感じる。学生がいない分、余裕があるのかもしれないなと思いながらなまえは英語の単語帳を開いた。高校3年に上がってからすでに3周以上繰り返しているがまだまだ曖昧な部分が多い。冷房の効いた車内で重い鞄を肩にかけ直し、なまえは学校の最寄り駅に着くまでの時間を暗記に費やした。
 自宅から約30分で学校に到着した。人の気配はないが、体育館からか遠くで運動部の声が響いている。それを聞きながら靴を履き替え、なまえは教室へ向かう。すでに冷房が入れられた教室は快適そのもので、タオルで拭き取った汗のあとの肌を風が抜けて、なまえの上がった体温を戻してくれるようだった。
 持参した水筒の麦茶を一口含み、なまえはほっと息をつく。少しばかり休憩をしたところで気持ちを切り替えて席に着いた。参考書とノートを開いて問題に目を向けると、なまえの頭からは一瞬のうちに暑さのことは追い出される。少しでも速く、しかし正確に、読み飛ばさず。なまえが問題を解くことに没頭していると、不意に教室のドアが開いた。突然の音に驚いてなまえがドアの方へ顔を向ければ、いつかとは逆に荒船が廊下に立って驚いたようになまえを見つめていた。
「荒船くん……おはよう」
「おはよう」
 取り敢えず挨拶を交わし、荒船は冷たい空気が逃げないようにドアをしっかりと閉めてからなまえの隣の席へ荷物を置いて苦笑した。
「なんで電気付けてないんだよ」
「なんとなく……?」
 なまえは荒船に指摘されてはじめて付け忘れていたことに思い至ったが、さすがにその理由ではあきれられてしまうだろうと笑ってごまかす。
「付けていいか?」
「うん、ごめんね。ありがとう」
 スイッチを入れてくれた荒船に礼を言い、なまえはふと教室の時計に目をやった。講習が始まるまであと1時間はある。荒船は遅刻こそしないが、かといって今まで早く来るということもなかったためなまえにはこの時間に荒船(というより他の人たちもこの時間にいることはめったにないけれど)がいるのが意外だった。
「荒船くん、早いね」
「みょうじこそ早いだろ」
「この時間だと人少ないから、できるだけ早く来てるの。あと暑いし」
 なるほどな、とうなずきながら席に座った荒船の方になまえが膝を向けて苦笑して見せる。
「確かに早く来た方が少しはましだな。電車も空いてるし」
「そうだよね。荒船くんっていつもこの時間……? じゃないよね?」
「夜に防衛任務がないときは早く来るようにしてるけど、最近はずっと任務入ってたからな」
 今度はなまえがなるほど、と言う番だった。
「大変なんだね。おつかれさま」
「ありがとな。けどまぁ昨日は任務なかったし今日以降も夜は減らしてもらったし大したことじゃない」
「そっか」
 大したことではないと荒船は言うが、もしなまえであればボーダーを言い訳にして勉強の手を緩めてしまうかもしれないと思った。
「けどほんと、私も荒船くんのこと見習わないと」
 ボーダーに身を置いて忙しい日々を過ごしながら常にいい成績を保っている荒船は、なまえにとってひそかに憧れ、目指す場所にいる人物でもあった。
 なまえがそんなことを頭の片隅で考えながら言えば、荒船の苦笑交じりの言葉が返ってきた。
「見習うって、何をだよ」
「英語」
 苦手なの、と続けてなまえは小さく笑ってみせた。以前、荒船と前後の席になったとき、英文法や長文読解を見てもらったことがある。そのときのことを覚えていたのだろう、荒船もふっと笑みをこぼした。
「ああ、苦手だったよな」
「うん。がんばろうって思って」
「がんばれよ。もしわからなかったら俺に答えられる範囲であれば教える」
「ありがとう!」
 そういえば、となまえは荒船と席が前後だったときのことを思い出す。英語が苦手だと言って両隣と前の席のクラスメイトと一緒になって考えていて、最終的には4人で荒船に文法や読解方法を教えてもらった記憶がある。そのことがきっかけでなまえは両隣と前後の人たちとよく話すようになったのだった。
「けど、荒船くんと話すの久しぶりだね」
「ああ……確かにそうだな」
 二人の席が前後だったときはよく質問をしたり席の近いクラスメイトも一緒になっておしゃべりに興じたりしていたが、席替えで離れてしまってから挨拶などはするもののゆっくり話す機会はほとんどなかった。なまえと荒船の波長はどちらかといえば合うものの、特別仲の良い相手だというわけでも趣味が合致しているというわけでもなかったからだ。
 春先の、たった数ヵ月前のことが、すでに遠く感じる。それは確実に時間が過ぎているのだと突き付けられているようだった。タイムリミットを意識した途端、どことなくなまえと荒船の間に静かな空気が降りてくる。
「荒船くんは、志望校決まった?」
 なまえはその脆い空気を壊さないよう、そっと舌に言葉を乗せた。
「一応は。みょうじは?」
「私も決めたよ」
 なまえと荒船の視線が交錯する。二人の目に映るのは、同じように目標を目指す相手だった。
「がんばろうね」
「ああ」
 互いの目の中に読み取った言葉を確かめるようになまえが口に出せば、荒船もうなずいて肯定してから同じようにがんばろうとつぶやく。
 なまえも荒船も、気が付けばあっという間に遠ざかってしまう季節の中にいた。
 くるり、くるり、くるり。荒船の左手が緩慢な手付きで、しかし器用にシャーペンを回す。なまえはそれを見つめながら少し先の季節に思いをめぐらせてみたが、瞼の裏によみがえるのは照り付ける太陽の光とまぶしいくらいの青だった。