去り行く季節のすべてを連れていけたら

 8月最後となる今日、校内講習自体はなかったがなまえはふだんと同じように学校へ自習をしに来ていた。
 教室は開放されているものの、強制ではないためいつもより人が少ない。
 午後から学校へ来たなまえはふだん授業が行われる教室を廊下からそっとうかがった。中では数人が自習をしている。なまえはすぐにもと来た道を戻った。人がいないであろう上の階へ行こうと思い立ったのだ。
 階段を上がって廊下に出れば案の定、その階は人気がない。なまえはいつも利用している空き教室で自習をしようと決め、その教室のドアを開ける。するとそこには先客がいた。確信というには薄すぎて、望みというと現実味を欠く、そんな予感めいたぼんやりしたものを抱きながらここへ足を運んだのだが、まさか本当にいるとは思わなかった、なまえはその後ろ姿を見つめる。
 荒船は開け放たれていたであろう窓を閉じていた。ドアの音に気付いたはずだが、荒船はなまえの方には顔を向けない。なまえは荒船が最後の窓を閉め終わると、近付いてその背中に声をかけた。
「やっぱり、荒船くんだ」
「やっぱりみょうじか」
 振り向いた荒船は口元に笑みを浮かべて振り返るとそう言った。なまえはその言葉に頬を緩め、ほっと息を吐き出す。
 なまえは鞄からノートや参考書、筆箱などを取り出してを机に置き、窓側に背中を預けている荒船の隣に立った。なまえが荒船に倣って体を窓へともたれさせると、それを待っていたように荒船は口を開く。
「久しぶりだな」
「ほんと、久しぶりだね。2週間ぶりくらい?」
「そうだな」
 最後に荒船と会ったのは、盆休みが明けてすぐあとだ。だいぶ時間が経っている。
「ボーダー、忙しかったの?」
 なまえは一通り会わなかった期間のことや休日のこと、そして勉強についての話が終わったところで尋ねた。
「まあ、少しな」
「そうなんだ、おつかれさま」
 少し、と荒船は言うが表情は苦味が多く見える。きっと受験勉強も相まって忙しない日々を過ごしていたのだろう、とボーダーの事情に明るくないなまえにも容易にわかった。
 当たり障りのない言葉を返してなまえは口をつぐむ。荒船も何も言わなかった。
「荒船くんと二人でこんなに話したの、初めてだよね」
 沈黙が教室いっぱいに満ちたころ、なまえがそう口を開いた。
「確かにそうだな」
 クラスメイトを交えて話すことは多かったが、二人でゆっくり話す機会はこの夏までなかった。
 効きすぎるくらい涼しい風を吐き出すエアコンを見つめらがら、なまえは外の音を聞く。教室の温度とはかけ離れた暑い中、セミが大声を上げている。
「荒船くん」
「なんだ」
「自習の邪魔して、ごめんね」
「別に気にしてねぇよ」
 いつかのやり取りと全く同じ流れに思わずなまえが声を立てて笑うと、荒船もつられたように笑みを浮かべて軽くなまえの腕をはたいた。以前よりも近いその距離に、なまえはこの季節が自分たちを近付けたのではないかと不思議な錯覚を起こす。二人の声にはどこか隠せない切なさが滲んでいた。
「夏って、寂しい季節だなって思わない?」
 荒船はなまえの言葉を聞くと、遠くを見るように視線を持ち上げた。
「……確かに、名残惜しくはなるな」
「あと、卒業のイメージ」
「海外みたいだな」
「だね」
 なまえはゆっくりとまばたきをした。途端、滲んでいた世界が鮮明にる。頬が冷たかった。
 寄りかかるように右肩を荒船につければ、同じように荒船が軽く重心を左足に乗せる。二人の肩が触れた。なまえが一歩引いて荒船の顔を見上げれば、そのまっすぐな目と視線が絡み合う。はらはらとなまえの目から涙がこぼれ落ちた。荒船の前でなまえはなぜか涙腺のコントロールがうまくできない。
 荒船は静かに涙を流すなまえに顔を寄せた。なまえは荒船の制服の袖口を掴み、背伸びをする。
 唇が触れた。ただひっそりと、押し込めるようにキスを重ねた。
「荒船くん」
 荒船の手がなまえの泣いた跡を消すように頬をなぞる。
「寂しいよ。やっぱり夏は、寂しい」
「そうだな」
「そこにいるのも寂しいし、いなくなるのも寂しい」
「そうだな、俺もそう思う」
「けどね、やっぱり好きだなっても、思うの」
 二人の視線がぶつかった。荒船のまっすぐな目は、とても美しい、となまえは思う。そして荒船のことがとても好きだ、とも思う。
「荒船くん」
 小さく息を吸い、なまえは口を開く。
 しかし、言葉にしてその美しさや愛しさを伝えることができない。どう形容すればいいのだろうか。なまえも荒船も、当てはまる言葉を知らなかった。
「私、今日、一緒に帰りたいな。あとね、また荒船くんと二人で、ゆっくり話したい」
 のぞきこんだ荒船の目は少しの間驚きに染まり、しかしすぐにもちろん、というように柔らかく細められた。。
 なまえが荒船を見つめ返せば、熱を持った二人の視線が交錯する。瞼を下した脳裏に浮かぶのは、夏の景色と思い出と、唇を合わせた相手だった。何度も角度を変えて交わすキスの合間に、なまえの目から再び涙がこぼれ落ちる。
 すぐに去ってしまうこの季節を、鮮明なままで記憶に残しておきたい。忘れたくないと、強く思った。
 まぶしいまでの青と白、まとわりつくような生温く湿った風、夕闇に浮かぶオレンジ、肌寒いほどの教室、触れた床の心地よい冷たさ、絡めた指の温度、交わすキスの切なさも愛しさも、すべて。
 なまえはひとつひとつの記憶を抱き寄せて小瓶に詰める。去ろうとしている季節の中で、なまえは思い出が風化してしまわぬよう、静かに涙を流しながらその小瓶を握りしめ、荒船の体温を追うように口付けた。