指先だけで呼吸を知る

 盆が明けてから初めての校内講習となる月曜日、なまえは英文法と長文読解の授業を受け終えてからその復習と他の科目の自習をしていた。時刻は午後7時の少し前で、授業が終了した1時間前と比べると残っている人数はずいぶんと少ない。 なまえは英語の授業が行われていた教室でそのまま自習に移行していたが、同じ教室にはなまえのほかに5人ほどしかいなかった。学校は8時まで開放されているのだが、暑さからか早く帰って自宅で勉強をしたいと考える生徒も少ないため、1日最後のコマが終わった時間から校舎内の人が減っていくのだ。
 校内講習の決まりとして、たとえ受ける授業がなくても日曜日以外は授業開始から終了まで――平日は午前9時から午後6時の間で、土曜日は午後3時まで――は学校にいなくてはいけないために午後6時までは人が多いのだ。気持ちを切り替えて家で勉強をしたい派だというなまえの友人は、長文読解の授業の復習を軽くしてから帰っていった。
 なまえは友人の背中を見送ると、ちらりと同じ教室にいる生徒たちの顔を確認する。ひとりで勉強しているクラスメイトの彼は大丈夫だろうが、他は自習中によく話している人ばかりだ。声は抑えられているが今も彼女たちの話している気配は絶えず、集中力が削がれてしまう。なまえは少し悩み、取り敢えず教室を移動することにした。
 なまえはさっそくノートなどを仕舞い、カーディガンは腕に、鞄は方にかけ、人がほとんど来ない上の階の教室に向かう。
 ひとつ階を上がれば、廊下にすら人の気配がなかった。気持ちを切り替えるつもりで移動したが、この静けさは余計に集中力を乱してしまいそうだった。
 誰もいない教室に入ったなまえは荷物を適当な席に置き、ふと目についた教室の後ろの壁にもたれかかるように座り込む。暑さのせいか疲れのせいか、やはりどうにも勉強をする気になれなかった。
 太ももに触れる床の冷たさが心地よい。なまえはつむじを壁につけるように上を向き、目を閉じて静かに息を吐き出した。車の音も話し声もどこか遠くで響いている。まるでこの教室全体が膜でおおわれているように錯覚してしまう、そんな響き方だ。エアコンが作動する音だけが現実味を帯びてなまえの耳に届く。
 勉強を進めなくてはいけないと頭ではわかっているが、なまえの体は座り込んだままだ。せっかく移動したのに、これでは意味がない。そう思いながらもなまえは動けなかった。
 じわりと滲みかけた視界をごまかすようにわざとらしく大きなため息をつく。と、そのとき突然教室の扉が開いた。なまえはびくっとすくみ上がり、反射的にその音がした方向に目を向ける。すると、入口に立っている人物としっかり視線が交わった。
「みょうじ」
 相手は少し驚いた顔でなまえの名前をつぶやき、律儀に扉を閉めてなまえの方へ歩み寄ってきた。
「また電気付けてねぇのかよ。あと何やってんだ?」
「うーん……。休憩、かなぁ?」
 座り込むなまえの前で立ち止まりその顔をのぞきこんだ荒船は一瞬訝しげな表情を見せるも、なまえの疑問形での返答に口元だけで小さく笑う。そうしてからなまえに倣うように近くの机に鞄を置き、ひとり分のスペースを空けて荒船は友人の左隣へと腰を下ろした。

「みょうじが座り込んだりすんの、意外だな」
 荒船はまるで最初からその場にいたかのような口調でそう言ってなまえをちらりと見やる。
「そうかな……? でも、夏だし、受験だし、疲れちゃうから」
 なまえは足をまっすぐ伸ばして両手を体の横へ無造作に置き、そう答える。荒船はなまえの答えに納得したのか不思議に思ったのか、言葉は何も返さずにただうなずいてみせた。
 遠くでセミの声が響いている。
「荒船くん」
 なまえは前を見つめたまま隣の相手を呼んだ。
「なんだ」
 荒船も同じように顔を前に向けたまま言葉を返す。
「自習の邪魔しちゃってごめんね」
「別に気にしてねぇよ」
「そっか」
 いつも通りの会話だった。しかし、どこかぎこなさがある。その原因はなまえの目が潤んでいたことにあるのは明白だった。荒船はふだん通りを演じてくれていたが、なまえは荒船に気付かれてしまったことと、気付いたうえで何も言わずにいてくれるそのやさしさ、その二つにさらに泣きたくなってしまっている。荒船はおそらくそのことにも気付いているのだろう。
「ちょっと教室寒いね」
 微かに震える声で、しかし精一杯の平静を装ってなまえが口を開いた。
「そうだな。けどみょうじもカーディガン持ってんだろ。着ねぇのか?」
「うん。あるけど、座ってるともう動きたくないなーって」
 なまえは荒船の方へ顔を向けるも、こぼれ落ちそうな涙を隠すために視線は上げられなかった。ごまかすように俯き、おどけた声をつくってみせる。すると、荒船はおもむろに立ち上がり、なまえが鞄の上に置いていたカーディガンを手に取って再びなまえの隣へ腰を下ろした。
「これだろ」
 荒船の言葉とともに、なまえの膝の上にカーディガンが置かれる。
「あ……ごめんね、ありがとう」
 なまえはカーディガンを右手でぎゅっと握りしめて唇をかんだ。変わらない態度も気遣うやさしさもふだんと同じなずなのに、ひどく胸が苦しい。人のやさしさに触れると涙が出てしまう。なまえは何も言わずに隣に座る荒船に、心の中でもう一度ありがとうとつぶやいた。
 なまえは顔を伏せて、嗚咽を押し殺すように涙を流す。もう悲しくも寂しくもないのだから、荒船を困らせ気遣わせてしまう涙なんて早く止まってほしい。
 なまえが涙を止めようと深く息を吐き出してから体を動かすと、不意に左手が荒船の右手にぶつかった。荒船は何も反応を示さない。なまえは泣いたためか、指先が微かに震えていた。小指が軽く触れ合ったまま、なまえはようやく涙を流すことをやめた目元を右手で軽くこする。
 どちらからともなく二人は触れ合った小指を絡めた。荒船の指先の温度ははなまえよりも少しばかり温かい。
 二人のつながった指先から互いの体温がなじんでいき、どこか現実味を欠いたまま、時間だけが過ぎていった。