transend darkness-

第四章





chapter:動き出す闇U




 U



 しとしとと降り続く細やかな糸の雨が針葉樹の葉に当たり、乾いた音を立てている。

 緑が鬱蒼(うっそう)と生い茂ったその中を、ノアは息を切らし、走っていた。


 どこか遠くの方から鳴り響く雷鳴が耳に届く。

 長い間降り続いている雨は泥濘(ぬかるみ)を作り、先を急ぐノアの足を掬い取る。

 ノアは思うように早く走れない現状に苛立ちを覚えていた。

 振り返り、背後を確かめる。

 背後にも緑の草木と赤土色の大地が広がっているばかりだ。


 ノアはそのことに安堵(あんど)し、胸を撫で下ろす。

 いくらか気分は和らいだ。

 しかし、それがいけなかった。細い足は、無造作に大地を張り巡っている木の根に引っかかり、身体が傾く。

 雨でゆるんだ大地へと倒れた。

 地面に打ち付けられた身体は多少の痛みを伴うものの、幸い泥濘のおかげで怪我はない。

 しかし、木の根に躓(つまず)いた足は違った。

 立ち上がろうと足に力を入れると、突き刺すような痛みを訴えてくる。


 どうやら足を挫(くじ)いてしまったようだ。


 だが、いつまでもこうして寝そべっているわけにもいかない。

 背後からは闇が迫っている。


 ノアは痛みを訴える足に細心の注意をはらって泥まみれになった身体を起こした。

 挫いた足に重心がかかると、さらなる痛みがノアを襲う。

 しゃがみ込んでしまいたい。そんな衝動に駆られる。

 だが、そうしてしまえば自分の命は消える。

 ノアは痛みを訴える足を無視して先を急いだ。


 ――しかし、ノアが追ってから逃げ切るのも土台無理な話だった。

 なにせノアを追っている闇は強大だ。

 もし仮に、ノアが怪我ひとつしていなかったとしても、闇から無事逃げ果せるのは軌跡に近い。

 今の自分では闇から逃げる術がない。

 ノアが死を直感した時だ。先ほどノアが後ろを振り返った時、背後には何も見当たらなかった筈なのに、それは突然姿を現した。

 同時にノアの身体が押し倒される。

 何も予期していなかったノアの華奢な身体は背中から地面に叩き付けられた。

 目を焼き付けるほどの強い稲光が走り、爆音にも似た雷鳴が大地を揺るがす。


 強い光の中に浮かび上がるのは、おぞましい男の姿だ。

 開いた瞳孔と充血した目。怯えるノアを嘲(あざけ)る大きな口はひん曲がり、鋭く尖った犬歯を見せつける。

 男の手がノアの身体の形状を確認するかのように、なぞっていく……。

 痺れにも似た甘い疼きがノアを襲い、華奢な腰が跳ねる。

 真紅の唇からは甘い声が放たれた。


 身体に熱が宿る。ノアは男に翻弄され、さらなる快楽を求めて自ら腰を振った。


 すると太腿から下着ごと、身に着けていたパンツが引き抜かれ、やがてしなやかな下肢があらわになった。

 男は太腿に顔を埋め、ノアの腰を持ち上げた。ノアの後孔に吐息が触れる。

 ノアは欲望に満ちた呻き声を上げ、両足を男の頭部に巻きつけた。

 男の長い舌が蕾を開いていく……。


 そうなるともう、ノアは男の操り人形だ。彼のすることすべてに従順に従い、快楽を求める。

 視線を落とせば、じっとりと濡れた自らの陰茎が見えた。

 しかし、それはノアだけではない。男もまた、ノアと同じで耐えられなくなったのか、熱を持つ楔を解き放っていた。

 男のたくましい腕がノアの腰を掲げ、熱く反り上がった楔を蕾目掛けて勢いよく穿つ。


 ノアは待ちに待った瞬間に声にならない悲鳴を上げ――そして目を開けた。

 そこにはノアを組み敷く男の姿はない。あるのは開いた窓から注がれる太陽の光だ。

 静かにそよぐ風が、汗でじっとりと濡れた皮膚を撫でる。

 あれは夢だったのだろうか。

 ノアは大きく高鳴る心臓を宥めるため、目の前に広がる光景をひたすら見つめた。

 汗ばんでいる額を手の甲で拭う。

 視線を落とせば見えるのは、ルームウェアのズボンを押し上げている膨れた陰茎だ。

 どうやら先ほどの強烈な夢で勃ち上がってしまったらしい。


 イジドアと過ごしていると、自分はますます淫らになる。

 十五年前からずっと、過去に起こったおぞましい出来事を夢で見ていたが、あのような悦楽事に変わってしまうなんて……。

 しかし、イジドアを責める気分にならないのはなぜだろう。

 両親を殺したヴァンパイアに対する憎しみはある。女性のように自分を抱くイジドアのことも恨めしいとも思っている。どうしようもない衝動に駆られ、彼の寝室に忍び込み、刃を向けているものの、それでもこの屋敷に住むようになった当初と比べて、最近は彼を責めていない。


 認めるのは癪だが、イジドアとの性行為を楽しんでいる自分がいるのもたしかだった。


 自分はいったいどうしてしまったというんだろう。

 淫らな人間になってしまったのだろうか。


 自分に問いかけても答えは見つからない。

 そうして考えている間にも、頭上では明るい陽の光が射し込んでいる。

 ノアは眩いほどの陽の光に目を細めた。

 それにしても、太陽が顔を出しているこの時間帯に目覚めるのは何日ぶりだろう。

 イジドアの屋敷に住むようになってから、すっかり夜型になっていたが、明るいこの時分に目を覚ますのはやはり清々しい。

 デジタル時計を見ると、時刻は午前十一時だった。

 せっかく、今日は久しぶりに日中に目を覚ましたのだ。気分転換をしよう。

 丁度今は昼前だ。久しぶりに外食も悪くない。

 ノアは膨らみはじめている陰茎を無視して外着に着替え、部屋を出た。

 一階のエントランスでは、サイモンは水を替えていたのだろう、真っ白なゼラニウムが生けてある花瓶を持っていた。


「どこかお出かけでございますか?」

「少し、出る。夕方には戻るから」


 日が高いうちは、イジドアは眠っている。彼を監視するのは日が翳(かげ)ってからだ。

 ノアはサイモンにそう言い残し、明るい陽の光が照らす外に出た。


 イジドアの屋敷に赴いた時とは違い軽装で屋敷を出たノアは深い森を抜け、曲がりくねった道に出る。二時間に一本しか出ていないバスに揺られること三十分。

 モンタギューと暮らしていた街に辿り着くと、以前、ノアがよく通っていたお気に入りのパスタの店に向かった。


 その時だ。おぞましい光景がノアの視界に飛び込んできた。


 年の頃なら四十くらい。襟足までの黒髪にやせ細っている軟弱そうなひとりの男が大きな交差点の真ん中に侵入していく姿が見えた。

 信号は赤だ。もちろん、車は行き交っている。

 慌てたノアは男に近づき、細い腕を引っ張ると、勢いよく突っ込んでくる車をかいくぐる。

 車を運転した彼らはことごとく進路を妨害され、ノアと男を非難する。

 男は思いのほか軽い。

 ノアに引っ張られるがまま、身体が傾き、なんとか安全な歩道に到着した。


「何をしているんだ! 死にたいのか!」

 ノアが激怒すると男は項垂れ、年甲斐もなく泣きはじめた。

 どうやら男にはよくよくの事情がありそうだ。

 ノアは男の話を聞くため、近くにある公園のベンチに座らせた。

 アスレチックではしゃいでいる子供の明るい声が届く。

 一見すると、のどかな昼下がり。しかしこの男はそのようには考えられないほどの辛い気持ちがあるのだろう。

 明るい子供たちの笑い声とは打って変わって、男は思い詰めた様子で口を開く。

「母が……悪魔に殺されるんです……」

 ノアは自分の耳を疑った。どんな深刻な内容でも、まさか男の口からそのような言葉が出るとは思ってもみなかったからだ。

 男を悩ませているのは悪魔だとは思わなかった。

 ノアはまさしく自分専門の事件だと確信した。


「ああ、このようなことを信じてもらえないのはわかっています。誰にも相談できず、私もどうすれば良いのかわからないのです」

 男はそこまで言うと、みっともなく声を出して泣きじゃくりはじめた。

 人目があるとか大人げないとかそういう状況を考えられないほど、切羽詰まった状態なのだろう。



「僕はエクソシストです。お役に立てると思います」


 ノアは、泣き崩れる丸まった男の背中を見つめながらそう言うと、彼は肘で涙を拭った。


「それはなんという巡り合わせ……。神は私を見捨てていなかった。屋敷に案内します。どうか母をお助けください」


 男の言葉にノアは力強く頷くと、ふたりはベンチから腰を上げた。





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