transend darkness-

第三章





chapter:心とは裏腹の身体V




 V



 じっとりとした生ぬるい風が柔肌を撫でる。

 その風は剥き出しの肌にまとわりつくような湿気を含んでいた。


 一度は意識を手放したノアだったが、不快な風が運んでくる熱によって目を覚ました。


 長い睫毛に覆われているアイスブルーの瞳が、半開きのバルコニーに続く大きな窓を写す。

 どうやらこの不快な風はそこからやって来ているようだ。

 窓の外を見やれば、漆黒の闇の中で満月がぽっかりと浮かび上がり、ノアがいるキングサイズのベッドまで月光が射し込んでいる。

 時刻は深夜二時をまわったところだろうか。コオロギや鈴虫たちが音を奏でている。

 どうやら自分が意識を手放している間に、夜はすっかり更けたらしい。

 イジドアといると、健全な人間である自分でさえも不健全になってしまう。


 ノアは室内を見回した。するとそこにいるはずの姿がない。

 背筋が凍りつく。

 標的を見失ってしまったことに、ノアは焦った。

 ここはイジドアの屋敷の中の二階にある、自分にあてがわれた部屋だ。

 いつの間に自分はこの部屋に戻ってきたのだろうか。

 たしか、イジドアの息の根を止めるため、彼の部屋に侵入したのではなかったか。

 記憶を辿れば、少しずつ蘇ってくる光景。

 たしかに、ノアはイジドアを葬り去るために、彼の寝室を訪れた。

 しかしその思いも敵わず、まんまと彼の手中に収まり、またもや抱かれてしまったのだ。


 ――ああ、なんということだろう。

 ノアは目を閉ざし、心は嫌悪感でいっぱいになった。


 それはノアがこの屋敷に押し掛けた本来の目的である、『ヴァンパイアの監視』ということを忘れ、あろうことか当人の部屋でのうのうと眠ってしまったことを意味する。

 そして意識を失った自分はサイモンによってこの部屋に運び込まれたのだ。

 では、イジドアはまだ寝室にいるのだろうか。

 気配を探っても、イジドアの魔力は感じられない。

 では、彼は何処に行ったのだろうか。

 こうしている間にも、もしかするとイジドアは人びとの生き血を求めて闇の中を徘徊しているかもしれない。

 血に飢えた彼は人びとを襲い、命を奪っているかもしれない。

 ノアは姿を消した獰猛なヴァンパイアを探すため、ベッドから立ち上がった。


 フローリング加工を施してある床はひんやりとしていて、イジドアに抱かれた当初の熱はすっかり消え去る。彼はこの場にいてもいなくとも、影響力は抜群だ。

 華奢な身体が大きく震えた。その拍子に視界の端で何か布のようなものが落ちるのが見えた。

 布のようなものが落ちた足下を見下ろせば、月明かりに照らされたブランケットがある。

 ――ああ、イジドアはまたヴァンパイアらしくない行動を起こした。

 少なくとも、彼は労りの心を持っている。

 足下のブランケットを目にした瞬間、ノアの胸は締めつけられるような、なんとも言えない感情が広がった。

 ノアは戸惑いを隠せず、そのまま立ち尽くしていると、後孔から何かしらの液体が伝って落ちてくるような感覚に襲われた。

 見下ろせば、その液体はいくつかの筋を作り、太腿を伝っている。

 この液体はイジドアが注ぎ込んだ白濁だ。

 自分はまたしても忌むべきヴァンパイアに抱かれた。しかも無理矢理ではなく、自ら懇願し、身体を開いた。

 それだけではない。自分を組み敷く彼を何度も求め、共に快楽を貪(むさぼ)り合った。

 その光景がまざまざとノアの脳裏に蘇り、打ちのめしてくる。

 脆弱な自分の身体を見下ろせば、赤い痣が散っている。

 両親の命を奪ったヴァンパイアに自ら身体を開き、喘ぐ自分はなんて淫らな人間だろう。


 月に見られるのも恥ずかしい。

 強烈な羞恥に襲われたノアは、満月からも身体を隠すようにして両腕を回し、うずくまる。

 それでもイジドアを恨むことができないのは、ふとした瞬間に思いやりを垣間見るからだ。

 イジドアの一挙一動に翻弄される自分自身が腹立たしい。


 秋の夜長を知らせる虫の羽音だけが聞こえる静寂の中で、ノアは打ちひしがれていた。

 しかし、その静寂は扉を叩く乾いた音によって消える。

 ノアは、ほぼ反射的に返事をした。

 そして今の状況を知り、視界の端に見えたブランケットを羽織った。剥き出しになっている肌を隠す。

 扉をノックする人物はひとりしかいない。この屋敷に住む、もうひとりの同居人、サイモンだ。

「失礼いたします」

 ノアから許しをもらったサイモンは、ゆっくりと扉を開ける。

 軋んだ音を奏でて開く扉から、柔らかな蝋燭(ろうそく)の明かりが室内を包みはじめる。

 月明かりのみで照らされた部屋に明かりが射し込むと、すっかり薄暗い景色に慣れてしまったノアは、眩しさに目を細めた。

 扉付近に立っている長身のサイモンはどんな時でも礼服を着用している。歳を重ねてもけっして損なっていない、くっきりとした目鼻立ち。目尻にある笑い皺が優しげな表情をつくりだしている。

 その彼がこの屋敷に住む理由は、妻と愛娘に先立たれ、悪魔に殺されそうになっていたサイモンを偶然居合わせたイジドアが助けたらしいということだった。

 そうして生きる目的を失った彼はイジドアに命を救って貰った礼として、この中世時代の古城にも似た屋敷に住み、彼の世話をしているのだという。

 そこでまた、ノアはイジドアという人物について理解できなくなる。

 ヴァンパイアとは、惨殺や破壊を楽しむ存在(もの)ではないのか。

 かつては人だったことを忘れ、簡単に理性を捨て去ることのできる化け物ではないのか。


 それなのに、イジドアはヴァンパイアという化け物にもかかわらず、少なくともノアが監視をしている現段階まではひとかけらの冷酷さも持ち合わせていない。それどころか、ノアたち人間と同じくらいの思いやりを彼は見せていた。

 しかも、彼は同居しているノアやサイモンを自分と同じ生き物に変えようとする素振りも見せない。

 そもそも、ヴァンパイアという生き物は不老不死である。彼らは仲間を増やし、生息する。

 しかし彼らはヴァンパイアとなった時から、ほ乳類という枠組みから外れる。子孫を増やすことはできない。

 ならばどのようにして仲間を増やしていくのかというと、それは染色体と関係する。

 最近の研究でわかったのは、彼らの染色体には、少なくとも何千億という数のウイルスがいたということだ。

 ウイルスは、人間では有り得ない古くなったとみなした心筋細胞や脳の神経細胞を喰らい、新しい細胞を生み出していた。その相互作用なのか、アドレナリンが異様に多く分泌されている傾向にあることもわかった。

 分泌されたアドレナリンで興奮状態にある脳は、冷静に考えることができなくなり、結果、理性を失うのだ。


 そのウイルスは地球上にいる、どれにも当てはまらない異質なもので、それこそが腐敗させない肉体へとつくりあげているのだ。

 彼らはいわば、ウイルス感染者だった。

 ウイルスさえ駆除してしまえば、彼らはまた普通の人間へと戻ることができる。

 しかし残念ながら、まだウイルスを発見されたばかりで、駆除する方法は見つかっていないのが現状だった。



 古より、ヴァンパイアに噛まれ、生き血を吸われれば同族になってしまうという言い伝えがあるが、それは事実とは異なっていた。

 そもそもヴァンパイアとは、悪魔に魂を売った代償として手に入れた姿だ。

 彼らは悪魔によって、地球上に存在しないウイルスを埋め込まれ、闇に生きる化け物になった。だからヴァンパイアが仲間を増やすには、染色体に生存するウイルスを相手に送り込むことで完了する。

 彼らは自分たちが住みやすい世の中を作り上げるため、仲間を増やし、生きてきた。


 それなのに、イジドアは仲間を増やす素振りを見せない。

 彼はいったい何を考え、生きているのだろう。


 ――いや、今は残酷な素振りを見せなくとも、いずれは自分たちを手に掛けるつもりに違いない。

 なにせヴァンパイアは悪魔と契約し、彼らの僕(しもべ)と成り下がった凶悪な殺人鬼なのだから――。


 そして彼はさらなる力を求め、必ず自分を襲うだろう。過去、亡き父と同じように自分も血液と霊力をすべて吸い尽くされるのだ。


「よく眠れましたか?」

 訊(たず)ねられた突然の声によって、ノアの思考は中断された。

 サイモンが訊ねてきたのは、ノアが両親を失ってからというもの、ことごとく眠りが浅くなってしまったからだ。

 眠れば最後、両親を失った当初の悪夢がふたたび蘇る。

 ノアはヴァンパイアに対してどうしようもない憤(いきどお)りと憎悪を抱いて生きてきた。そしてその憤りと憎悪という感情はノアの身近にいるヴァンパイア――つまりはイジドアに向けられる。

 ノアはフラストレーションが起きるとイジドアの寝室に忍び込み、彼の寝首を掻くのだった。

 しかしどうしたことだろう。最近は両親が殺されるという夢を見ていない気がする。

 サイモンに問われるまで気づかなかった事実に内心驚いた。

 目を閉ざしても、過去にノアが体験した恐怖の一夜は蘇らない。

 それもこれも、すべてはイジドアのせいだ。

 彼はノアが刃を向けるたび、ベッドに組み敷き、自分を抱く。

 本来受け入れることができない後孔を使い、彼を受け入れる。そのおかげで同性に抱かれたノアはことごとく疲労する。

 最近は、イジドアに教え込まれた快楽に溺れ、眠る日々が続いていた。ひどく腹立たしいことに――……。


 イジドアに抱かれるのは最悪だ。しかし、結果としてよく眠れていることもたしかだった。

 おかげでノアの霊力は感情に左右されることなく常に安定している。

 ――それでも、イジドアに感謝なんてしたくはない。

 深い睡眠が取れていることを素直に喜べないのは、同性に抱かれたという事実があるからだ。




 ……面白くない。


「――眠れた」

 ノアは真紅の唇を窄め、サイモンの問いに答えた。


「それはようございました。イジドア様もこれで少しは気分が和らぐことでしょう」

「それはどういうこと?」

 イジドアの気分が和らぐとはどういうことだろうか。

 思いがけないサイモンの言葉に、ノアの思考が止まる。

「イジドア様は、ノア様を、そのようなお姿に変えてしまったことに胸を痛めておいででしたので……」

 どういう意味だろう。サイモンの言葉は受け入れがたい。

 だってサイモンの言葉どおりなら、イジドアはノアがあまりよく眠れていないことを知っていて、それを改善させようとしているという解釈になってしまう。

 彼はノアをゆっくり眠らせるため、抱いているとでもいうのか。

 それはけっして、獰猛なヴァンパイアが考えることではない。


 いやしかし、それならば夜の相手に不自由しない美しい彼が見窄らしい身体をしたノアを抱く理由の合点がいく。

 まさかそんなことが有り得るというのか。


 いや、彼にそんな思いやりがあるはずがない。


 ノアはサイモンの言葉を否定し、首を振る。

 サイモンもまた、そのことについてはそれっきり何も話さなかった。

「シャワーと、それから食事の用意もできておりますので、いつでもどうぞ」


 彼は笑い皺を目元に浮かべながらそう言うと、背を向け、その場を去った。


 残されたノアは、というと、放心状態に近かった。


 突き出た唇は引っ込み、今度は開閉を繰り返している。気分は酸素不足の金魚だ。


 サイモンは知っている。ノアがイジドアに抱かれているということを――。


 それもそうだとノアは思った。

 だって今の自分の姿といったら、一糸もまとわない素肌の上に、ブランケット一枚を羽織っているだけだ。

 しかも、彼が気を失い、ぐったりとしているノアをこの部屋に運んだのだとしたら、もうすっかりイジドアとの情事は知られていることだろう――。

 それに、彼の寝室が地下で隔離されている造りだとしても、イジドアに抱かれる時に発するノアの嬌声が漏れているかもしれない。

 そう考えただけでも、どうしようもない羞恥がノアを襲う。

 しかし、ノアを襲ったのは羞恥だけではなかった。消えた筈の発火するような熱が、下肢に溜まる。


 脳裏に蘇るのは、高く反り上がった立派な雄が双丘の奥に隠された蕾を貫き、肉壁を擦り上げて深い抽挿を繰り返すその場面。

 イジドアと情を交わしたその時のことを思い出しただけで、刺激された蕾は開閉を繰り返してしまう。おかげで空気が中に入り、体内にまだ残っているイジドアの白濁が濡れた水音を奏でた。

 太腿の間にある陰茎は、ふたたび息づきはじめている。

 真紅の唇からは淫らな声が飛び出る。

 ノアは慌てて両手で唇を覆った。

 彼のことを考えただけで、求めてしまう淫らな身体――それがノアをひどく惨めにさせる。

 ノアは俯(うつむ)き、唇を噛みしめた。





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